悲しみの聖母

rossini_stabat_mater_myung_whung.jpg午前、いつものように新橋でアポイントがあり、新大久保駅から山手線に揺られ、現地に向かう。曇り空だが、やはり「春」の匂いがする。おもむろに書籍を取り出し(「リサイクルをしてはいけない(武田邦彦著)」)、 30分ほど斜め読みする。2000年に出版された本だからさすがに古い情報もあり、「ん?」と首を傾げる部分もあるにはあるが、概ねagreeである。産業革命以来の「人間の傲慢さ」、「自然に対する感謝の忘却」-確かに40年来人間として生きてきて当たり前のように思っていた「地球」というものの存在について考えさせられる。古来、人々は大地と共に共存共栄してきた。そのことを人間はあらためて考え直さなければならない時期なのだろう。

春先の爽やかな冷たい風を感じながら、ロッシーニを聴く。

40作近くのオペラを書き上げ、何と37歳で名目上リタイアしたジョアッキーノ・ロッシーニの名作。1942年、すなわち作曲者リタイア後の50歳頃の作曲ということになる。「スターバト・マーテル」は十字架に懸けられたイエス・キリストの足元で聖母マリアがその死を嘆き悲しむ様が描かれている。

悲しみの母は立っていた
十字架の傍らに、涙にくれ
御子が架けられているその間

呻き、悲しみ
歎くその魂を
剣が貫いた

ああ、なんと悲しく、打ちのめされたことか
あれほどまでに祝福された
神のひとり子の母が

厳粛な詞にもかかわらず、ロッシーニの作品は華麗でオペラティック。
ところで、37歳でほぼ引退したロッシーニは後半生何をやっていたのだろう?
「美食三昧」ということなのだが、結果、様々な病気に悩まされ、最後は直腸癌で亡くなった。よく成人病予備軍の人が「美味しいものを食べられなくなるくらいなら死んだ方がましだ」とか、ヘビースモーカーが「煙草を吸えなくなるなら死んだ方がましだ」といい、はた迷惑を省みない人がいるが言語道断。自分の命はまだしもあとに残る人たちのこと、そして何より他者のことを「想う」気持ちを忘れてはならない。
ロッシーニは名作を残したが、僕は普段あまり聴くことはない。カロリー過多でいかにも「ネアカ」な音楽は僕の余り好みでないようだ。

ところで、55年前の今日、奇しくも同日に旧ソビエトの独裁者ヨシフ・スターリンと20世紀ソビエトを代表する作曲家セルゲイ・プロコフィエフが亡くなっている。先日NHKのETV特集で放映された番組で亀山郁夫氏が、ゴルバチョフのペレストロイカ、ソ連崩壊、エリツィン、そしてプーチン大統領の登場によるロシアの経済成長という図式は、かつて19世紀のアレクサンドル2世による農奴解放、そしてアレクサンドル3世以降の統治に対する民衆蜂起、及びロシア革命、スターリンの登場という流れにそっくりそのままで、「歴史は繰り返す」のではないかという危惧を語っていた。恐ろしいことである。

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