ワルター指揮ニューヨーク・フィル ベートーヴェン 交響曲第3番「英雄」(1949.3, 4 &5録音)

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは実に情緒的で官能的、一方、ブルーノ・ワルターは実に冷静で知的な人だったのだろうと思う。前者の音楽が人々の心を捉えるのは気を上手に扱ったからだろうが、その解釈は作品の質によって向き不向きがあったことは否めない。一方、後者の心底にあったのは(向き不向きは横において)どこまでいっても慈しみの心だ。

私はシカゴ交響楽団の招きで、1949年秋、8週間にわたる客演指揮を行なう旨、同意しました。双方の交渉がまとまってまもなく、シカゴから知らせがあって、アメリカで重きをなす全指揮者、わけても、私の他に客員として招かれることになっている3人の傑れた指揮者と、同じ立場にある6人のソリストたちが、私と時を同じゅうしてシカゴで演奏することを断ってきたので、大いに困惑しているというのです。事のしだいがあまりに着想外かつ不愉快に思われ、ことに、あなたが昨年シカゴに客員指揮者としておられたことを知っておりましたので、私自身の発意からあの電報を打ったしだいです。同僚のアンセルメ氏が電話で教えてくれましたが、なんらかの裏面工作が行なわれて、それぞれの指揮者にあえて拒みえないような圧力をかけたに相違なく、そのためシカゴ交響楽団の立場はきわめて容易ならざるものとなったのだろうというのです。
(1949年1月1日付、ブルーノ・ワルター宛)
フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P217

これに対するワルターの返信が、実に冷静でまた的を射ていて興味深い。裏工作であれ何であれ、事態はある意味当然だと彼はいうのである。

それで、ナチ迫害の犠牲者たち、あるは彼らと苦しみを分かつ人々、あるいはかの政権に憤激した反対者らが、政権の代表的人物として活動した者の―内面的立場がたとえどうだったにせよ―出現に反抗することが、実際それほど意想外で奇怪でしょうか? あなたの内面的な葛藤や問題や憂鬱について、これらの人々はなにも知りませんし、あなたの抵抗と抗議についても知られることは僅少、非ナチ化運動を当地では懐疑の目で見ております。世人が判断し判断しうるのは、ただ「人が現に見えるもの」によるので、「人が現にあるもの」によるのではないのです。
ところで私に関しましては、もちろん反対運動の先棒をかついだことはなく、私にも加えられた圧力に抗して、あなたの契約発表後も、来シーズン客演数回の約束を固く守ったのです。あなたがナチ党員であるはずはなかったと、私は確信しておりました。

(1949年1月13日付、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー宛)
ロッテ・ワルター・リント編/土田修代訳「ブルーノ・ワルターの手紙」(白水社)P305-306

ワルターの「現に見えるもの>現にあるもの」という視点が素晴らしい。一般大衆は見た目でしか判断しないというのだ。あまりに正論的返信ゆえか、これに対するフルトヴェングラーの書簡には戸惑いが見えるが、フルトヴェングラーが負けじと次のように弁明していることがまた面白い。

私がボイコットされた理由について書いておられることを拝見しますと、その背後にある考え方に、権柄づくで支配された国での生活や活動がどのようなもので、そのような状況のなかでどれほどのことができるかということに対して、かなり同情的理解が欠けているように感じます。ヒトラーのドイツで私が一つの―精神的な―立場を貫いたとすれば、これはひとえに私の芸術と抵抗のおかげでなければなりません。ナチスから委任されたもう一つ別の「立場」は、引退後、もはや私のものでなかったからです(私は国家とのいっさいの絆を絶ったのでした)。しかし、これがまた誤解の因となったようです。と申しますのは、私と私の芸術を体制はその宣伝の具として利用したとすれば、ナチスの信用が高まった以上に私のそれは失われたに相違ないからです。私の印象では、いっさいは悪意のこもった中傷であって、不公平このうえないことだと思います。芸術家ともあろう者が、正規の情報を知る労さえいとい、外部からの圧力に屈してそれに荷担するのを見るのは、深い悲しみを覚えさせずにはおきません。
(1949年1月22日付、ブルーノ・ワルター宛)
フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P223-224

フルトヴェングラーの憤懣やるかたない思いもわからなくもない。しかし、ワルターはそもそもの信念の違いをよく認識し、これ以上の議論を避けんとし、次の書簡では、本件について次のように書き、締めている。

「私にたいするボイコット参加者の態度は、かつて私が取ったような立場になってみる心を欠いて、少なくとも感情移入能力の欠陥症に冒されている」と書いておられます。この病気は世界的流行病でありまして、真剣に努力する不断の善意のみが、これにたいする免疫性を持つのです。それで率直に申さねばなりませんが、かような参加者―ナチの犠牲者たち、彼らに同情する人々、憤激せる者の群れ―にたいするご自身の態度にも、あの病気の徴候が示されております。ナチ・ドイツ政治の毒に汚染された文化生活に、12年間も重大な関与をされた姿が、どのように映らざるをえなかったか、前便からご賢察願えたはずでした。
(1949年2月10日付、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー宛)
ロッテ・ワルター・リント編/土田修代訳「ブルーノ・ワルターの手紙」(白水社)P307

要は「そういうあなたにも同情的理解が欠けているよ」と返すのである。
本件にまつわる二人のやりとりはこれにて終わる。フルトヴェングラーの内面の怒りはおそらくそう簡単には治まらなかっただろうと思うが、ここには「戦うな」というワルターの信念の強さが如実に込められている。ワルターはフルトヴェングラーに感情的になって抜きかけた矛を収めることの重要さを諭したのだと思う。

同じ頃にワルターが録音した「エロイカ」が素晴らしい。

・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニック(1949.3.21, 4.16 &5.5録音)

第1楽章アレグロ・コン・ブリオ冒頭2つの和音から先鋭的で、開放的だ。この推進力はトスカニーニの指揮にも匹敵し、冷静さの中にこれほどの感情の微細な動きを刻印した演奏はなかなかない。スタジオ録音とライヴ録音の折衷のような、ワルターの当時の思念、信念が音の隅々にまで行き渡る名演奏だと思う。
なるほどフルトヴェングラーの、ウィーン・フィルとスタジオ録音したEMI盤が女性性の勝った演奏だとするならワルターのこの録音は男性性の象徴のような演奏だといえまいか。
あるいは、第2楽章「葬送行進曲」に見る、先の大戦への悔悟の念と深い祈りの顕現はワルターの慈しみの真骨頂。猛烈な勢いの終楽章アレグロ・モルトがまた生き生きとして、素晴らしい。

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4 COMMENTS

桜成 裕子

おじゃまします。この演奏を聴いてみました。金管楽器の音がよく響いている気がしたからか、開放的でおおらかな印象を持ちました。「英雄」らしさがよく出ていると思いました。ワルターがナチス政権や戦火から逃れて渡ったアメリカで、戦後に演奏されたということを考えると、第2楽章は戦争で失われた命への鎮魂、第4楽章は勝利を寿ぐニュアンスが感じられてきます。
 ご紹介のフルトヴェングラーとワルターの間の書簡が興味深いです。アメリカでのボイコットに、芸術家としてあるまじき態度と憤慨するフルトヴェングラーに、それは予想外なことではない、あなたの真実がどうあったとしても、人にどう見えるかが今の問題なのだ、とワルターは言っているのでしょうか。フルトヴェングラーはあまり納得していないようですが、正に賢者の言葉だと思われます。ワルターはフルトヴェングラーの立場に精一杯理解を示して公平な観点で助言しているようですが、最後に、「あなたの考えも他者の心境を思い遣るところが欠けている点では同様ではないか。」とチクリと返しているようで面白いです。同じドイツで名声を分けた指揮者同士、芸術で理解し合い、またフルトヴェングラーの立場も理解しているけれど、片や迫害を受けた側、一方は迫害をした方に所属する側、ワルターの内面も複雑ではなかったのでは?と推察されるのですが・・・。被害側はされたことを忘れない、加害側はしたことを忘れがちということがこの場合も言えるのでしょうか。「私と私の芸術」を繰り返すフルトヴェングラーに一抹の自己中心性を感じます。
 ワルターの「感情移入能力の欠陥症は世界的流行病であり、真剣に努力する不断の善意だけがそれにかかるのを防ぐ」との言葉が、この病気がますます蔓延する現代においてますます大切に思えます。ワルターの「英雄」を聴く機会をありがとうございました。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

もともと公開されることを想定していない書簡の類というのは、その人の人間性が垣間見え、本当に興味深いですよね。フルトヴェングラーの小ささが残念ながら見えるようで、僕はとても気の毒になります。
それにしてもブルーノ・ワルターの大らかさ、冷静さ、懐の大きさは随一ですよね。そういう視点で彼の音楽を聴くと、一層その意味を深く捉えることができます。1949年の「英雄」は本当に素晴らしいと思うのです。

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桜成 裕子

岡本 浩和 様

 ありがとうございます。ブルーノ・ワルター指揮の演奏はあまり聴いたことがないのです。コロンビア響との「田園」が素晴らしい、と聞いたことがあるので、いつかじっくり聴いてみようと思いつつここまで来てしまい・・・
 指揮者の人柄も、その音楽を聴く魅力の要素だと思います。クレンペラーが「ワルターはモラルの人。自分は絶対にちがう。モラルの人に深い芸術表現はできない。」というようなことを言っているそうですが、私は高い倫理観やおおらかさ、人への慈しみ、共感力等のある人、ワルターのような人の音楽こそ聴いていきたいと思います。ありがとうございました。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

ワルター指揮コロンビア響による「田園」(ステレオ)は超おすすめの音盤です。
ぜひ聴いてみてください。

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