かつてアンドレイ・タルコフスキーは次のように書いた。
私にとってなによりも近いやり方は、音楽が詩のリフレーンのように現われてくる方法である。詩のなかで、詩的なリフレーンに出会うとき、たったいま読んだばかりの知識のよって豊かにされているわれわれは、作家にこの行を最初に書こうとさせた根本原因へと帰っていく。リフレーンは、われわれにとって新しい、この詩的世界へわれわれが入りこんでいくときのあの始原的な心の状態をわれわれのなかに生みだし、それを同時に、直接的なもの、あらたにされたものにするのだ。われわれはいわば、その起源に帰っていくのである。
~アンドレイ・タルコフスキー著/鴻英良訳「映像のポエジア―刻印された時間」(キネマ旬報社)P232
音楽が、心の元の状態を生み出し、さらにそこからまったく新しい心の状態が創出されるという考えに僕は賛同する。タルコフスキーの映画における音楽の使い方はまさにそういうものだった。
このような場合、音楽はその思想を分解し、単に映像と並存して印象を強めるばかりでなく、この素材から新しい、質的に変容された印象を受け取る可能性を押し開くのである。このようなリフレーンから誘発された音楽の根源的な力に漬かることで、われわれは幾度も、かつて体験された感情のなかに帰っていくのだが、そのたびに情緒的な印象は新たなる蓄積を獲得するのである。このような場合、一連の音楽を導入することで、ショットのなかに刻みこまれた生はその色彩を変え、ときとしてその本質さえも変える。
~同上書P232-234
ベートーヴェンが付曲した「エグモント」など、劇音楽に込めた思想と限りなく近いように僕は想像するのだが、どうだろう。
このころベートーヴェンが請け負っていたのはゲーテの悲劇「エグモント」のための劇付随音楽であった。宮廷劇場支配人のヨーゼフ・ハルトル・フォン・ルクセンシュタインは、戦争のため休演していた劇場運営を立て直すため、劇場救済興行として1810年の春にゲーテの「エグモント」とシラーの「ヴィルヘルム・テル」による舞台興行を企画し、それらに付随音楽をつけることで聴衆動員をもくろんだ。ハルトルはふたりの作曲家に白羽の矢を立てた。アーダルベルト・ギュロヴェツとベートーヴェンであった。ベートーヴェンはシラー作品への付曲を願ったのだが、付曲が難しいと言われていたゲーテ作品を担当することになった。だが、スペインの圧政に苦しむオランダ独立運動に取材した劇で、非業の死をとげる実在人物エグモントの悲劇に共感し、作曲意欲が高まっていったようで、秋にはスケッチを開始していた。
~平野昭著「作曲家◎人と作品シリーズ ベートーヴェン」(音楽之友社)P112-113
物語の喜怒哀楽が人の心を捉えるのである。
ベートーヴェンの音楽は、観客がゲーテの戯曲「エグモント」から受ける印象を、質的に変容し、人々の生の色彩を変える力を持っている。それは、現代において、映画音楽の巨匠ジョン・ウィリアムズの音楽がショットのなかに刻みこまれた生の本質さえも変えるであろうことと似通っている。
ジョン・ウィリアムズの、ウィーン・フィルを振った、自作コンサートの記録。
どれもこれも一世を風靡した映画たち。
それらすべてにジョン・ウィリアムズの音楽が関与しているという奇蹟。
それぞれの楽曲は、どこをどう切り取ってもジョン・ウィリアムズ色満載で、映画世界のシーンをにわかに髣髴とさせるもの。タルコフスキーの言葉のように「始原的な心の状態をわれわれのなかに生みだし、それを同時に、直接的なもの、あらたにされたものにする」音楽であり、それを聴く僕たちは、もはや映像なくして「その起源に帰っていく」。
なお、コンサートそのものについてはBlu-rayで鑑賞した方がもちろん良い。観客の拍手などカットされたCDについては、ながらで聴き、そして想像力を膨らませ、彼の映画たちに思いを馳せることのできる絶好のツールだ。煌びやかなウィーン・フィルの音色、残響麗しいムジークフェラインザール、そして、ムター独奏のヴァイオリンの妖艶な歌、どれもが観客の熱狂を呼ぶ最高のパフォーマンスだと思う。
[…] の美しくも勇気を奮い立たせる数多の音楽が世界を席巻する。今年1月の、世界がコロナ禍に染まる前のウィーンは楽友協会大ホールでのコンサートの様子がそのことを見事に証明する。 […]