
われわれ人間は肩寄せ合って生き、互いに作用、反作用を及ぼしあうが、いかなる状況にあっても、常に孤独である。殉教者は手を取りあって刑場に入るが、十字架にかかるときはそれぞれ一人ぼっちである。抱きあっている恋人たちは孤立している恍惚の情を合体した自我超越へ溶解させようと必死になり、空しく足掻く。肉体に包まれた精神はすべて、苦しいときも楽しいときも、孤独を運命づけられているのがその本性である。感情、気分、洞察、空想—これらはみな私事であり、表象を通してでなければ、また間接的でなければ、伝達不可能である。体験についての情報はプールできるが、体験自体となると、これはできない。家族から国家にいたるまで、人間集団はみな島宇宙社会である。
~オルダス・ハクスリー著/河村錠一郎訳「知覚の扉」(平凡社)P12-13
音の缶詰に浸りながら、それが単なるプールされた「情報」に過ぎぬことに隔靴掻痒。僕たちは皆有限の時間の中にあり、時間に支配される。時間の経過とともに消える運命にある音楽芸術などは、見事にその真理を衝く。
後年、神秘主義を標榜したスクリャービンの音楽などは、まさに現実の音の中に身を投じねば到底理解できない波動を発している。
ミヒャエル・ポンティのアレクサンドル・スクリャービン。
すべての作品を集めたアルバムを聴くにつけ、作曲家の進化と同時に退化すら感じるのだから興味深い。それは、あくまで聴き手の感性、否、耳の問題だ。年月の経過とともにスクリャービンは発展する。同時に、弧の世界に籠る。決して難解とは言わぬ。得も言われぬ幻想的な、宙に浮くような快感がその中にはあるのだから。
音はあまり良くない。しかし、その音楽性たるや、小難しいスクリャービンの哲学を離れて、まるでジャズ音楽であるかのようにいとも容易く弾き流すようにポンティは歌う。
短い時間の中で、スクリャービンという天才が、自らの枠を壊し、そして拡げていったかが手に取るようにわかる1枚だ。命は一人ひとり別々。何という孤独染み入る音楽なのだろう(願わくば実演で聴きたい)。
ロシア的な音楽が好みなら、わたしでなくラフマニノフを聴くようにすればよいのだ。ラフマニノフが弾けばわたしの場合と違ったものになる。疑いもなく美しいし、説得力があり、すべてが歌っている。わたしはあまりに西欧的でありすぎる点で非難されている。わたしだってロシア人であり、わたしの音楽はロシア的だと自分では思っているが、それはラフマニノフと同じ意味でではない。
(スクリャービンの、批評家アサーフィエフへの言葉)
~藤野幸雄「モスクワの憂鬱—スクリャービンとラフマニノフ」(彩流社)P195
最晩年の孤高の小品たちの、耳について離れない執拗さがことに美しいのだと僕は思う。