
これぞ大自然と同期した環境音楽なのだと思う。
アルムート・レスラー 現時点で達成されたお仕事を振り返ってみて、どんなお気持ちを抱かれますか。満ち足りた思いを感じていらっしゃいますか。
オリヴィエ・メシアン 満足も虚栄も感じたことはない。成し遂げたことに幸福感を抱いたり、作り上げたものに―良いものも悪いものもあるが―喜ぶこともない。そんなことは、私にとって何ら問題にならない。一つ一つの作品には私の体験した瞬間があり、私の気に入った風景があって、私の出会った事物や生命、人々や鳥や木がある訳だが、こうした作品を聴き直し、楽譜にもう一回目を通す度に、私はこうした瞬間を、こうした人々や鳥や木を再び見出し―そして私は満たされるのだ。あたかも、昔の時代の映画や写真を見せられているかのように。
~アルムート・レスラー著/吉田幸弘訳「メシアン―創造のクレド 信仰・希望・愛」(春秋社)P88
1979年4月23日、パリの自宅でメシアンが語った、創造にまつわる彼の深層にまで及ぶ数多の言葉が興味深い。少なくとも彼において、作曲というのは自身の思想や思考、あるいは感情の反映などではなく、あくまで無我、無心、無為の状態の中で生じたいわば自然現象だったのである。
メシアンにとって、観るもの、聴くもの、出逢うもの、すべては楽曲に昇華されるべき「体験」だった。5年前に生み出された《峡谷から星たちへ・・・》はまさにその体現で、中で彼は次のように語っている。
ただ、楽父バッハがプロテスタント・コラール旋律の素材を取り込む時に行ったことほどつまらないものはない―時にはわずかの音符、それも長い音価の音符からなる極めて単純な旋律だ。旋律の下に何かを付け足す必要があり、ほとんどの場合は素晴らしい細工を施した伴奏部を付け足している。彼はあの対位法の技巧によって、格別興味が引かれる訳でもないこうしたわずかなコラールの音譜に、極めて高い価値を与えたのだ。私の場合、あのほんのわずかな文字が予期しなかった音高差を生じさせ、私に和声と音響の組み合わせを探求させた。
~同上書P91-92
ほんのわずかな文字とは、ダニエル書第5章からとられたもののようだが、メシアンの場合、大自然の中にあり、天と大地に挟まれる中で、言葉(聖書、あるいは教会)による直観を得て、音楽を尽し上げていったのだということがわかる。
メシアンの信仰がよって立つところはカトリック教会の中にあったが、彼は、神の真理はすべてのキリスト教信仰の隅々にまであふれていると理解していた。こう表現している。「私はキリスト者であり、私たちは皆キリスト者だ。世界教会主義の現代にあって―さらにいえばどの時代でも―私たちは信仰の違いを重要視し過ぎてはいけないと思う」。
~パトリック・カヴァノー著/吉田幸弘訳「大作曲家の信仰と音楽」(教文館)P240
まさに信仰の違いを重視するばかりに起こる争いを止めんがためにメシアンは作曲した。
大自然の音を聴くように、メシアンの音楽に耳を傾ければ、それが僕たちの身体の音と一体になっているかがわかるというもの。時に感情に揺さぶられるも、信仰の中にあって、彼の心はいつも静かであるのだ。
サロネンは、そのことを実に精密に描く。またサロネンは、各楽器のニュアンスを引き出すのが巧い。大勢の中から浮沈する鳥の声の色彩と、一貫して重心低いピアノを奏するクロスリーの見事な駆引きが、演奏に箔をつける。
[…] ※追記帰宅後、すぐにサロネン指揮ロンドン・シンフォニエッタの音源をあらためて聴いてみたが、印象がまったく異なることに驚いた。当たり前だけれど、こういう作品はステージを […]