サヴァリッシュ指揮バイエルン国立管 フルトヴェングラー 交響曲第3番(1980.1.7Live)

現代の人々の感性を信じよという。そのためにどんなときも革新的なことに挑戦せよと彼は言うのである。非常に分かりにくい翻訳ではあるが、フルトヴェングラーの最晩年のいわば自己批判の論は、人間が自らの性質・性格、いわゆる思考の鎧を抜け切ることができないという弱点を露わにするようで興味深い。

現代人は、ただ総括的に、全体としてのみ把握できる。現代人とは、今日の芸術家にとって、まさに過去の偉大な巨匠たちにとって彼らの大衆が意味していたもの、すなわち対面者、「なんじ」、愛の対象であり、創造性の本来の母胎である。それは明らかに、進歩イデオロギーへの信奉にとらわれた現代の美学者が認めるよりも包括的な存在である。こうした美学者は真面目くさった頑固さや自信ありげな知ったかぶりのうちに、自分は運命の行く手、「未来の発展」について確かなことを予言できるものと思いこんでいるのではあるが。現代人は―彼が生産的であるかぎり―なにはともあれ豊かであり、多彩であるが、これに対して現代的な宣伝の人間は貧しいのみか、みずから貧しくなろうとしている。たとえばシュトラウス、プフィッツナー、レーガー、マーラー、シェーンベルク、ドビュッシー、ラヴェル、オネゲル、ストラヴィンスキー、バルトーク、若きヒンデミットなどの活躍した今世紀初頭の音楽界は、いかに豊かなものであったことか。かくも多くの名前、音楽的素材にいどむかくも多種多様な試み、かくも多士済々たる個性!「多くの道はローマに通じる」という言葉を、人々は心底から語ることができた。しかるに現代はどうだろう。音楽祭において、音楽素材の扱い方という点では絶えず注目をひく少数の作曲家たちも、しだいに似たりよったりのもの、均一的なものになってきているのではないか。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P187-188

同じ頃、自身の交響曲第3番と格闘していた彼の思いとは別に、未完のこの作品には深層に蔓延る前世紀的、浪漫的資質が投影され、人間の抱える矛盾を具に教えてくれる。かく語るフルトヴェングラー自身が、現代の人々の感性を信じていないのではないのかと。

・フルトヴェングラー:交響曲第3番嬰ハ短調(1954)
ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮バイエルン国立管弦楽団(1980.1.7Live)

孤独の中で彼は五線紙に向かっていたのだろうと思う。
一人ぼっちだとはいえ、もちろん愛する妻への感謝の念や愛情を忘れてはいない。

電話が通じなかった。せめて手紙でなり、きみと語るという気持に浸ろう。きみの声を聞き、きみがそこにいることを確かめないでは、一日も暮れてほしくない―いつもそんな気持を抑えがたいのです。
ぼくは今ひとりぼっちで、だれにも束縛されない。一人で食事をし、晩には本を読むか、さもなければぼつぼつ仕事にもかかっている。ひとりでいられるもうしばらくの時間をほんとうに楽しみにしている。問題の睡眠も、これまではいつもうまくいった。どうやら、まわりにたくさんある森とも関係があるらしい?!・・・

(1954年1月18日付、妻エリーザベト・フルトヴェングラー宛)
フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P288

人生の最後の年のはじめに自身と向き合い、そして、音楽と対峙し、彼はとても幸せだったのだと見える。その癖、そのとき書き下ろしていた交響曲は暗澹たる表情を常とし、決して明朗な、希望に満ちるものだとは言い難い。しかも曲調は、どうみても、マーラーやブルックナーなど先達からの借りものにしか思えない。

第1楽章「宿命」ラルゴ
第2楽章「人生」アレグロ
第3楽章「彼岸」アダージョ

標題がそもそも陳腐。しかし、それを差し引いても、第3楽章「彼岸」アダージョは、やはり美しい。せっかくならもう少しうねる、感情の坩堝と化す表現が望ましいが、サヴァリッシュの棒はとことん透明感を煽る。

今日は、交響曲を書き上げましたので、上機嫌です。しかしあと3週間で、3月初めにはまたあの「決まりきった生活」に戻らなければならないと思うと、たちまち憂鬱になってしまいます。
(1954年2月8日付、フランク・ティース宛)
~同上書P291

フルトヴェングラーにとって作曲とは自身の内面を抉る作業だったのだろうか。
作品の完成に快哉を叫ぶ様子がわかるが、それでも行間から読み取れるのは暗い悲しみだ。それこそ交響曲第3番嬰ハ短調を貫く思念。サヴァリッシュの、フルトヴェングラーへのただならぬ思いが伝わる。

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