150年ほど前のコジマ・ワーグナーの日記には次のようにある。
公開を前提としない日記ゆえ実にリアル。
夕方、4人の子供と2人の甥を連れてサーカスへ。リヒャルトは道化師を見て、「あれは人間とはいっても動物も同然だ。感じるのは肉体の痛みだけで、自尊心のかけらもない」と感想を述べた。楽団に耳を傾ける。演奏は悪くない。これが音楽家の原点だということを肝に命じなくてはいけない、とリヒャルト。
(1871年10月5日木曜日)
~三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記2」(東海大学出版会)P588
俗物リヒャルト・ワーグナーの言葉が興味深い。彼はプライドの塊だったということだ。しかし、彼が創造主とつながる能力を持ち、巨大で崇高な構造物を形にするときは、おそらく堅固なプライドはむしろかなぐり捨てたのだろうと想像する。純粋な、それこそ聖なる本性が彼に音楽というものを生み出させたのだと思う。同じ日記の余白には、コジマによる次のような書き込みがあった。
リヒャルトと長い間、木の枝にとまってじっと動かない蝶に見入った。とびきり美しいアカタテハ。
~同上書P588
これがその証拠。何という慈悲深さ。
マタチッチの「神々の黄昏」組曲を聴いた。
彼自身がオーケストラ用に編曲した、25分ほどの壮大な音絵巻だが、マタチッチの意外に粘らない、しかし、「神々の終末」でのまるで暴れ馬のような圧倒的音響に心が揺れ、言葉を失う。
〈神々のたそがれ〉におけるブリュンヒルデが、神々の統治の後に純粋な愛があらわれる世界を予言し、指環をもって火のなかに飛びこんで死ぬところには明らかに「救済」の主題が鳴っている。破壊から創造への転換がここにある。ただワーグナーはそれをありきたりなヒューマニズムからうたいあげたのではなかった。人間を根底で支える集団的無意識を、感覚の色彩的表現の多様な喚起をつうじ「個」をこえるレヴェルでうたったのである。無限旋律のゆたかさ、多様な動機の提示を根底に、一種の「祭儀」の求心的なあらわれとして示したのである。
饗庭孝男「ワーグナーにおける『救済』の問題―光と闇の二元論―」
~「レコード芸術」1982年5月号P161
ここにはブリュンヒルデの歌はない。まして、ハーゲンの「指環に近づくな!」という叫びすらない。文字通り、言葉のない無限旋律の中でワーグナーは創造の権化たる愛を歌い上げ、マタチッチがその劇的瞬間を見事に切り取り、音化するのである。
マタチッチが最も脂の乗っていた時期の、揺れるワーグナー音楽には、不思議な魔力がある。それこそ不安定さから生ずる魔法の力が。「黄昏」最後のシーン、すなわちここでは「神々の終末」と呼ばれる場面は、ワーグナーの創造物の中でも特に最高の瞬間であることを思い知る。