ヴァント指揮北ドイツ放送響 ブルックナー 交響曲第6番(1995.5.15Live)

もちろん私は齢を重ねるにつれて、自分が生涯にわたって取り組んできた問題、特に宗教的な問題について、いっそう深く考えるようになってきている。それらは私にとって実存的な問題であるが、けっして教会的な教義についての思索と同じものではない。私は厳格なカトリック的な教育を施されてきた。おそらくそれは、私がカトリックの父親とプロテスタントの母親との「雑婚」から生まれたからであろう。このような固定した伝統のなかで育てられた人間にとって、そこから自分を解き放つのはかなり難しいことなのだ。しかし私は、自分自身で考えるようになって以来、単なる教義的なことからは次第に距離をおくようになってきている。
モーツァルト、シューベルト、ブルックナーは、それぞれ異なる音楽を書いてきたが、彼らの交響曲作品に共通して存在しているのは、私の個人的な見方によれば、一種の超人的なメッセージであり、私的な表現は完全に抑制されている。

ヴォルフガング・ザイフェルト著/根岸一美訳「ギュンター・ヴァント―音楽への孤高の奉仕と不断の闘い」(音楽之友社)P355-356

刷り込みによる、教育による信仰には意味がないとヴァントはある時期に悟ったのだろうか。実践的でない信仰には何もない。モーツァルトやシューベルト、そしてブルックナーには宗教の枠を超えた何かがあると感じとった彼の解釈は、齢を重ねる毎に深くなっていった(最晩年の来日公演におけるシューベルトとブルックナーの孤高の境地よ)。

・ブルックナー:交響曲第6番イ長調(原典版)
ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団(1995.5.15Live)

冷静な、客観的なブルックナー。
信仰というものを具現化した、普遍的な音楽が鳴り響く。ようやく晩年になってヴァントが到達した一つの境地がここで表されているようにも思う。第1楽章マエストーソの神秘、そして、第2楽章アダージョの言葉にならない透明な音(このとき、ブルックナーは何を見、何を想っていたのか? あるいはヴァントは何を考えるのか?)。大自然の運行を見事に描写する創造者の姿勢には、信仰よりも慈しみ、人々や自然への愛情の方が優っているのだろう、聴いていてとても温かな気持ちになる。内なる良心が刺激されるのである。
続く第3楽章スケルツォもある意味大人しい。思念や感情をできる限り抑制し、ただひたすら謙虚に音を鳴らす様。そして、すべてが帰着する終楽章の無心の、無我の、無為の圧倒さ(老子を思う)。

確かなことは、ブルックナーが、彼の信心深い性格の一部として強い信仰性を常に持ち続けたこと、彼がまさに「神に向かって」作曲していたことである。彼の交響曲の中にあるコラールや、荘厳な和声進行、心のこもった旋律は、ここに由来している。彼はうわべを装うことができず、彼は「彼」でのみありうる。それは、常に神に望まれ、それゆえにこそ彼の芸術的表現の一面性、あえていえば統一性においてそうなのであり、彼の世俗的な特質においてもそうなのである。
レオポルト・ノヴァーク著/樋口隆一訳「ブルックナー研究」(音楽之友社)P39

ギュンター・ヴァントの演奏は、ブルックナーの志向した「神」すら超えているのではないかとさえ僕には思える。

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