舞踊と信仰とは本来切っても切れないものなのだろうと思う。
戦中から戦後にかけて、ヴォーン=ウィリアムズが創作した交響曲は、ほぼ全編不協和音を伴う、激しい音調を示すが、ショスタコーヴィチの交響曲同様、そこには紛れもなく、平和の希求が刻印され、聴く者の心を脅かすと同時に安寧を喚起する力がある。それは、闇があっての光であることの証明というものか。第2楽章モデラートなどは、ある種人類への警告ともとれるような厳しさであるが、ひとたびその音楽に飲み込まれるや、これほど魂を刺激するものはないのではないかと思わせるほど。獰猛な、重低音の効いた、大英帝国の芯からの雄叫びは、聴くものを揺らす。
私は、かつて一般に広まっていた、宗教は興をそぎ陰鬱だとする見方が、幸い今では過去のものになったと期待していた。だが恐れるのは、舞踏を見下し、ライン・ダンスやジャズくらいしか頭に思い浮かばない者が、いまでも少なからずいることだ。しかし舞踏は、その最高の発露を音楽や詩、絵画と分かち合い、人間の願望を最高度に表現する最も偉大な手段の一つなのだ。舞踏は常に宗教的情熱と結びつけられてきた―すなわち、感情のみなぎった、整然としてリズミカルな動きである。
~パトリック・カヴァノー著/吉田幸弘訳「大作曲家の信仰と音楽」(教文館)P210
ここでのヴォーン=ウィリアムズの意図は、人々がかねてより踊りと結びつけてきた音楽、すなわちあくまでイギリスの民謡にこだわるということなのだろうと思う。
物々しい「動」の3つの楽章を経て、「静」と「聖」の同化した終楽章エピローグの素朴さ。
レイフ・ヴォーン=ウィリアムズがイギリス民謡の素朴さにこれほど魅せられた理由は、作曲家自身に本来備わっていた派手さとは無縁の気質に、おそらくは見出すことができる。国際的な名声を得て王族や上流社会から乾杯される立場になってからも、彼は決して気取ったりはしなかった。ヴォーン=ウィリアムズの人柄は、まわりの環境や自分と異なる者の集まりによっても変わらなかったのである。
~同上書P213
2つの弦楽アンサンブルによる「トマス・タリスの主題による幻想曲」の荘厳な音調に、遠く古の得も言われぬ哀感を想う。続く「揚げひばり」は、ヴァイオリン独奏を伴うロマンスだが、3つのパートに分かれた音楽には、ヴォーン=ウィリアムズが終生愛してやまなかった歌謡性が充溢する(特に中間部、アレグレット・トランクィロの生き生きとした歌)。
また、有名な「グリーンスリーヴス幻想曲」の、流れるような旋律の美しさに心が晴れる。ここでのアンドリュー・デイヴィスの指揮は、至極丁寧で、心がこもる。指揮者は確実にヴォーン=ウィリアムズに共感しているのだと思う。
音楽は常に儀式、特に宗教的な儀式の一部だった。原始時代から歌と舞踏は宗教的な儀式の一部であり、宗教的な儀式は音楽、特に歌への欲求を呼び起こし、礼拝に集う者の興奮や霊的な高揚を高めようとした。
(レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ)
~同上書P211
魂が心から歌を求めるのだということは、ヴォーン=ウィリアムズを聴けばわかる。歌こそ癒しの源泉なのだ。
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