
ブルックナーについていえば、私は彼を、創作プロセスや、作品の数とか規模といった単なる数量的な面で、モーツァルトと比較してみようとは思わない。しかし私には、神とその恩寵に対するきわめて深い、そして自明ともいうべき信仰なしに、ブルックナーがあのような音楽を書けたとはとても思われないのである。こうした信仰があったからこそ彼はあの力強い交響的構築物を考案し、作り上げることができたのであり、仕事に自己批判的に倦むことなく取り組み、それらを後世にも「妥当する」かたちで遺したのである。
~ヴォルフガング・ザイフェルト著/根岸一美訳「ギュンター・ヴァント―音楽への孤高の奉仕と不断の闘い」(音楽之友社)P356
ギュンター・ヴァントのブルックナーには、他の指揮者にはない「何か」がある。それは、ブルックナーの中にある信仰と同義の信仰なのではないかと、最晩年の彼の演奏を聴いて思った。壮絶なる、崇高なる最後の来日公演でのブルックナーをいまだに想う。
ヴァントのブルックナーは自然体だ。
一切の恣意を放棄し、あくまで楽譜に則り、ただひたすら無理のない力強い音楽が奏でられる。
ブルックナー自身はおそらく、教会という、この予め与えられ自らを導いてくれる合法則性のなかに安らぎを感じていたであろうし、作曲活動のなかで自らが災禍にさらされていると思うときは、教会が避難場所のような存在になったことだろう。しかし私は、自分がブルックナーを指揮する場合は、彼が一人の偉大な交響曲作曲家であること、そもそも最大の交響曲作曲家の一人であること、そして単に敬虔で神聖な気分をもった作曲家ではないことを明確に示したいと考えている。
~同上書P357-358
そう、宗教という枠組みを超えたところにもはやブルックナーの音楽は存在するのだと彼は言うのである。その通りだと僕は思う。
最高にして最美は終楽章!!28分近くに及ぶ、微動さえしない堂々たる構築物を、偉大なる信仰をもってヴァントが誠心誠意形にする様が眼前に浮かぶ。特に、コーダの一層思念を込め、ゆっくりと奏される音楽の力に僕は感動せざるを得ない。最後の和音が溶けるように消え、数秒の静寂を経て、徐に拍手が起こり、徐々に喝采として解放されゆく様子にもため息が出るくらい。
ところで、ヴァントは、モーツァルト、シューベルト、ブルックナーに共通するものは、私的な表現を超えた「超人的なメッセージ」だとするが、ヴァントの指揮する「未完成」交響曲には、確かにブルックナーと共通の(信に基づく)大いなる自然との同一化があるように思う。
流麗なる第1楽章アレグロ・モデラートの透明感。そして、沈潜しつつも、光輝満ちる弾2楽章アンダンテ・コン・モートの喜び。何て幸せなのだろう。