武満徹氏の作品は大好きです。彼の作品こそ、ボーダーレスなカルチャーの代表格だと思いますよ。
(エサ=ペッカ・サロネン)
時間は、緩っくりと、落ちていく。
武満徹のこの言葉は、そのまま彼の音楽を表現するようだ。
ドビュッシーのようで、そうではない、いかにも東洋的な浮遊感は、武満の代名詞。どの曲を聴いても同じに聴こえると揶揄する人もあるが、そういう現象こそが武満の特長であり、それゆえの永遠がそこにはあるのである。
「時間の園丁」というエッセーが美しい。
11月も半ばを越すと、いまこれを書いている信州の仕事場では、終日ストーヴを焚きつづけているのに、それでも朝夕の冷気はかなり厳しいものに感じられる。空はどこまでも蒼く、唐松の葉が雨のように降りしきっている。昔、感心して読んだ、オーストラリアの少女の、俳句のような、短詩を憶いだす。
時間(とき)は生命(いのち)の木の葉、
そして、私はその園丁だ。
時間は、緩っくりと、落ちていく。
下手な訳だが、大意はおよそこんなものだった。11歳の少女が書いたとは思えない、なにか哲学のようなものが感じられる。この少女は、オーストラリアでも、都会ではない、自然の変化に恵まれた、たぶん、地の涯が見通せるような環境に暮らしているのではないだろうか。
~「武満徹著作集3」(新潮社)P94
ここでは生命や死について彼の思うところが語られているが、なるほど武満徹の音楽に潜む感慨は、常に生であり、また死についてであるかのように僕は思う。
ギターのための作品を集めた1枚。
ジョン・ウィリアムズとエサ=ペッカ・サロネンの成せる業。巨大な音塊を放出する管弦楽と、繊細な微音に包まれるギターの饗宴は、武満徹の音楽の神髄を示すよう(虹へ向かって、パルマ)。
音というのは不思議なものだ。生まれては、直ぐ、消える。そして、ひとそれぞれの記憶の中に甦える。音は消えてゆくから、ひとはそれを聴き出そうと努める。そして、たぶんその行為こそは、人間を音楽創造へと駆り立てる根源に潜むものだろう。
~同上書P38
武満徹は心情を音にする、あるいは言葉にする天才だ。
音の不思議な性質を感知し、それを創造のスイッチと解釈しての作品なのだから、素晴らしくないわけがない。音楽というより、音そのもの。
ギター独奏の「フォリオス」も、12の歌からの4曲(”Here, There, and Everywhere”、”What a Friend”、”Amour Perdues”、”Summertime”も、浮遊する音調ながら軸が実に安定しているのがミソ。このアルバムの白眉は「海へ」だ。まるで尺八と琵琶を模するように奏されるアルト・フルートとギターの協演。第1曲「夜」のギターの幻想、また第2曲「白鯨」におけるオーボエ・ダモーレの憂いと第3曲「鱈岬」のオーボエ・ダモーレとギターの調和。あまりに美しい。
ここでのサロネンは、武満に全面的に奉仕するように無心で知性を紡ぐ。