
イタリア(フィレンツェ)で、たまたまエトヴィーン・フィッシャーの演奏するベートーヴェンのソナタを聴く機会がありました。これほどに彩りの美しい、テクニックの点でも円熟したフィッシャーの演奏は、聴いたことがありません。今がまさに絶頂期です。母堂の死が、この芸術家に磨きをかけたのです。
(1947年4月28日付け、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーからエトヴィン・フィッシャー宛)
~フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P188
果たしてこの時のソナタがどの作品だったのかは不明だけれど、エトヴィン・フィッシャーの弾くベートーヴェンは、何にせよ浪漫の憂いに溢れ、その上、堅牢で微動だにせず、楽聖の革新精神を芯から発露する美しいものだと僕はずっと思っていた。
ちなみに、同じ手紙の中でフルトヴェングラーは次のように書いているが、大事な人を愛する思いこそが創造力を一層豊かにすることが明白だ。
ぼく自身は、指揮をすることになっていくぶん当惑しています。もちろん今でも指揮はできるのですが、ぼくの心のなかでは、それはもうすっかり過去のものになっているのです。指揮をするぼくの主たる喜びといえば、エリーザベトがそれを喜んでくれることに尽きるのです。彼女ゆえに、ぼくの現実生活はなんとか人並みのものになりえています。
~同上書P188
1954年、ザルツブルク音楽祭の記録。この4ヶ月余り後、フルトヴェングラーは命を落とす(同年の音楽祭でフルトヴェングラーはウェーバーの歌劇「魔弾の射手」を指揮しているので(7/26&7/30)、モーツァルテウムでのこのリサイタルを耳にしている可能性は十分にある)。
作品111がことのほか見事で、第2楽章アリエッタの、速めのテンポで颯爽と進む音楽は、老境の無私の骨頂を示すもの。続く、「田園」ソナタも第1楽章アレグロから、脱力の、純白のベートーヴェン。しかし、「ワルトシュタイン」ソナタは、他と幾分様相を異にする。第1楽章アレグロ・コン・ブリオ冒頭から緩急の変化をつけ、音楽は若々しく、生き生きとうねるのである。
われわれは初期のベートーヴェン、中期のベートーヴェン、後期のベートーヴェンを知っている。そして、ベートーヴェンがなお聴力をもっていたときと、すでに聾になってしまったときの、この2つの時期における形式や色調に見受けられるかすかな差異をも追究する。われわれは実に多くのことを知っているのである。ところが、ベートーヴェンのなかに陣痛の叫び声をあげていた火山的爆発力、彼を照らしていた太陽、彼の心臓をひき裂いた絶叫、—われわれを震撼すべきこれらのものに対して、われわれはもう不感症になっているのだ。しかも未来を産む源泉はここにこそあるのに。
「ベートーヴェンのピアノ曲集」
~エトヴィン・フィッシャー/佐野利勝訳「音楽を愛する友へ」(新潮文庫)P63
時期を問わず通底するベートーヴェンの精神こそ、真理を一にするものだ。そして、そこに感化されるフィッシャーの奏するベートーヴェンのソナタの真実味。