フランツ ズートハウス パツァーク メードル クローゼ フルトヴェングラー指揮RAIローマ放送響 ワーグナー 楽劇「ジークフリート」(1953.11.10,13&17録音)

「ジークフリート」第3幕。
ワーグナーが再び筆を執り、完成に向けて動き出したとき、12年もの時が経過していた。
後期様式を獲得した音楽は圧倒的に深度を増す。
この幕こそ世界を悲劇に導くことになる「ニーベルングの指環」の中心だ。

序奏と第一場。
さすらい人とエルダの対話が、急転直下の物語の鍵を握る。
ここでのフルトヴェングラー指揮による管弦楽による苛烈な音楽が、「指環」のある種クライマックスがここぞと言わんばかりに力を発揮する。

エルダ
 男たちの行為は私の眼力を曇らせます。
 知恵の女である私でさえ
 かつてある支配者に征服されました。
 希望の乙女を私はヴォータンのために産みました。
 ヴォータンは彼女に、戦場でたおれた英雄たちを
 自分のために選びだすよう命じました。
 彼女は勇敢であり、また賢くもあります。
 なぜ私を起こすのですか? エルダとヴォータンの子供に
 どうして知恵を求めないのですか?
さすらい人
 ヴァルキューレの
 ああ、あの娘、ブリュンヒルデのことか?
 彼女は嵐を支配するこのわしに逆らったのだ、
 わしが最も強く自制せねばならなかったことにおいてな。
 戦いの統率者であるわしが是非ともやりたかったこと、
 しかし自身の願いに反して実行しなかったことを、
 ブリュンヒルデは父親のことをよく知っていたために、
 あえて反抗して自分の意志で、
 激しい戦場でそれを行ったのだ。
 だから戦いの父はその娘を罰した。
 彼女を深い眠りに沈めたのだ。
 彼女は岩山で、こんこんと眠っている。
 その神の娘が目覚めるのは、
 女として地上の男を愛する時だ。
 そんな彼女に訊ねて、何の役に立つのだ?
エルダ
(物思いに沈み、より長い沈黙の後、ようやく歌いだす)

 目覚めてから後、私は混乱しています。
 世界が荒々しく混乱して、回っています。
 あのヴァルキューレが、預言者の子が、
 眠りに閉ざされて罪を償わねばならなくなったのですか、
 知恵の母が眠っていた間に?
 反抗を教えた者が、反抗を罰するのですか?
 その行為を引き起こした張本人が、その行為に怒っているのですか?
 正義を守る者、誓いを守る者、
 その者が正義を妨げ、虚偽の誓いによって支配するのですか?
 私を再び下に降りさせてください!
 眠りよ、私の知恵を閉ざしておくれ!

井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集2―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P153-154

神々と言えど、あるいは預言者と言えど、因果律から抜け出すことはできなかった。
そして、エルダの不満は的中し、最終的に神々は滅んだ。
「神々の黄昏」終幕ラストについて、後にワーグナーは語っている。

「私にとって自分の詩はただ次のような意味をもつのです。—
前に記した真実の提示です。『陰鬱な一日が神々に暮れていく。たが恥辱のうちにあなたの高貴な種族は終わる。その指輪を手放すな!』という台詞の代わりに、私はエルダにただこう言わせることにします。『すべては—終わる。陰鬱な一日が神々に暮れていく。あなたに忠告します。指輪を避けなさい』—私たちは死ぬことを学ばねばなりません。つまり死ぬという語が意味するところをそのまま何も欠かさずに、終末に対する怖れがすべての愛の喪失の源です。そしてその怖れは、愛がおのずからすでに色褪せたところにのみ、生れてくるのです。」

カール・スネソン著/吉水千鶴子訳「ヴァーグナーとインドの精神世界」(法政大学出版局)P82-83

正反対の言葉の変遷だが、決定稿では採用されなかった。
それは、初稿が因果律を抜け出せず、陰陽二気の世界に留まっていたに過ぎないことを無意識にワーグナーが悟っていたかのようにも思える。
そして、決定稿ではブリュンヒルデに次のように歌わせるのである。

財宝でも黄金でもない、
神々の栄華でもない、
館や屋敷でもない、
これ見よがしの虚飾でもない、
いかがわしい契約に結ばれた
まやかしの同盟でもない、
偽善めいたしきたりの
硬直した掟でもない、
喜びにつけ苦しみにつけ
至福なるもの—それはただ愛のみ—」

~同上書P84-85

ワーグナーがついに「理」というものをとらえた瞬間であろう。
フルトヴェングラー指揮RAIローマ放送交響楽団による楽劇「ジークフリート」(コンサート形式)。

・ワーグナー:楽劇「ジークフリート」
第1幕(1953.11.10Live)
第2幕(1953.11.13Live)
第3幕(1953.11.17Live)
フェルディナント・フランツ(さすらい人、バリトン)
ルートヴィヒ・ズートハウス(ジークフリート、テノール)
ユリウス・パツァーク(ミーメ、テノール)
アロイス・ペルネルシュトルファー(アルベリヒ、バリトン)
マルタ・メードル(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
ヨーゼフ・グラインドル(ファーフナー、バス)
マルガレーテ・クローゼ(エルダ、アルト)
リタ・シュトライヒ(森の小鳥、ソプラノ)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮RAIローマ交響楽団

1953年10月末から11月末まで、まる1ヶ月をかけての「指環」全曲演奏。このときのローマはさぞ熱かったことだろう。数日おきに楽匠フルトヴェングラーの「指環」が披露され、日を追う毎に熱を帯びていくのだから堪らない。

このところ僕は思う。「指環」において重要な分岐点となるのは、「転」を示す「ジークフリート」全曲にほかならないだろうと。

フラグスタート スヴァンホルム マルクヴォルト ヘルマン ペルネルシュトルファー フルトヴェングラー指揮ミラノ・スカラ座管 ワーグナー 楽劇「ジークフリート」(1950.3.22Live) ヴィントガッセン ニルソン ホッター シュトルツェ ナイトリンガー サザーランド ショルティ指揮ウィーン・フィル ワーグナー 楽劇「ジークフリート」(1962.5&10録音) ヴィントガッセン ニルソン アダム ナイトリンガー ベーム指揮バイロイト祝祭管 ワーグナー 楽劇「ジークフリート」(1966.7.26Live) ジェス・トーマス ヘルガ・デルネシュ カラヤン指揮ベルリン・フィル ワーグナー 楽劇「ジークフリート」(1968.12&1969.2録音) ヤノフスキ指揮SKDのワーグナー「ジークフリート」(1982.2録音)を聴いて思ふ

フルトヴェングラーの指揮は、わずか1年にも満たないうちに彼岸への逝ってしまうとは思えないほどの熱狂と生命力の充実を感じさせるものだ(最後の輝きとも解釈可能だが)。

フルトヴェングラー&RAIローマ響の「ジークフリート」(1953)を聴いて思ふ フルトヴェングラー&RAIローマ響の「ジークフリート」(1953)を聴いて思ふ

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