クレンペラー指揮フィルハーモニア管 モーツァルト 交響曲第38番「プラハ」(1962.3録音)ほか

ライブ配信市場が急成長を遂げているのだという。一方、リアルのライブエンターテイメント市場は8割減だというのだから大変な有様だ。そういう僕もコロナ禍によって実演に接する機会が激減した。

50余年前のグレン・グールドの予見を思う。

電子メディアを用いた音楽活動が引き起こしつつある最も根本的な変化は、作曲家や演奏家のものでもなければ、もちろんマネジャーや宣伝広告業界の人々のものでもありません。聴衆のためです。聴衆は発達を続け、エレクトロニクスと結婚した音楽の環境に対応しており、きわめて私的な状況において音楽と遭遇しています。しかもそこでは、かなり個性的な判断が自然に生まれます。この判断は、これまでおおやけの場に集まったときの判断であった集団的な反応からは程遠いものです。電子時代の音楽に参加する方法を独力で見出すことを奨励されているのもまた聴衆なのです。
(1964年「電子時代の音楽論—名誉博士号授与に答えて」)
グレン・グールド、ジョン・P.L.ロバーツ/宮澤淳一訳「グレン・グールド発言集」(みすず書房)P244

今こそまさにそういう時代が突如として、しかも選択の余地なく到来したのだと思う。何にせよ聴き手の主体性により音楽体験はより真実となる。日々、音盤を聴き、内省し、文章を綴りながら、そう僕は考える。
グールドはまた次のようにも言う。

この主張が考慮し損ねているのは、聴取体験には本当の迫真性など存在しない、ということです。私たちが昔の音楽を聴く場合、当時の人の反応、つまり衝撃や喜びを、同様に感じ取るわけではありません。電子的伝送の本質とは、私たちと同時代の音楽のみならず、まさに昔の音楽との遭遇を私たちが求めるときの姿勢に、実に夢のような深い効果を与え続けていることであって、ここに疑問の余地はないのです。
~同上書P242

メディアの本質を、それがたとえ少々うがった見方であったとしても、グールドのこの見解はある意味正しい。

例えば、オットー・クレンペラーが晩年EMIに残した数多の録音はどれもが感動的だ。そして、それらの録音を、半世紀以上を経て耳にしても、実に夢のような深い効果を僕たちに与えてくれることは事実なのである。

モーツァルト:
・交響曲第35番ニ長調K.385「ハフナー」(1960.10.22-23録音)
・交響曲第36番ハ長調K.425「リンツ」(1956.7.19録音)
・交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」(1962.3.26-28録音)
・歌劇「魔笛」K.620序曲(1964.3.24-26, 31 &4.1-4, 6-8, 10録音)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団

他の曲に比較して、「プラハ」の音は不思議と暗い。
この作品には精神的に一歩階段を上がったモーツァルトの深い哲学的思念が宿るが、確かにクレンペラーにもその精神が以心伝心、自ずとその音調を表現させられているのではないかと思われる。
さらには、全曲録音から採られた「魔笛」序曲の崇高な味わい。最晩年のモーツァルトの天使のような純粋さと生への希望が刻印される堂々たる演奏だ(この録音のスタートする2日前が僕の誕生日)。

残念ながら過去の巨匠の実演を聴くことはもはや叶わない。
しかし、残された音盤でも十分にその素晴らしさ、感動を享受できることは間違いない事実だ。実演とはある意味また違った感動がそこにはある。

さて、多くの人々は、これ(ながら聴き)を悪いことだと考えています。つまり、音楽とはまったく無関係な時間の過ごし方に音楽体験が貢献することが再評価を根本的に求められているのはけしからんというわけです。しかし、私の見るところ、家庭での聴取体験が本当に重要なのは、レコードが同時に流れているそうした補助的な時間の過ごし方に自発性があるからです。おおやけの場での聴取体験において錯覚的な征服感にばかり費やされたエネルギーと注意力の範囲は、録音というメディアをとおして、いっそう決然とした方向転換を達成します。
(1965年「メディアとメッセージ—マーシャル・マクルーハンとの対話」)
~同上書P255

なるほど、自発性の重要さ。納得だ。

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