確かに武満徹の作品に通底するものは「夢」だ。
あの感覚的な音の塊が想起させるのは、白昼夢と言ってよいほどの、白々とした、はっきりとした夢だ。
先年亡くなったオリヴァー・ナッセンが指揮する武満作品は、いずれもがその夢の輪郭を明確に描く、実にリアルな音像を喚起する。そもそも夢とは何ぞや?
夢は昼間の生活の無価値な断片のみに関わっているのはなぜかという謎は、もはや謎でも何でもない。私はまた、覚醒時の心の生活は夢の中までは続いて行かないものであり、夢はしたがって心的活動を愚にもつかぬ素材で浪費しているだけであるという主張に反論しなければならない。その反対が真なのである。昼間にわれわれの心を占めたものは、夢思考をも支配する。思考にきっかけになる素材を昼の間に与えられているからこそ、われわれは夢を見ようと努めるのである。
~「フロイト全集4—1900年夢解釈I」(岩波書店)P231
例えば、フロイトは、夢というものが昼間の些末な素材に因るもので、それを夢の歪曲の現象だとする。フロイトの方法は何と現実的なのだろう。
仮に歪曲があるにせよ、夢は現実から歪められ一本の線でつながるのである。
だからこそ、晩年の武満が、ドビュッシーを引用して生み出した、文字通り「夢の引用」は、ドビュッシーと武満との交歓であり、武満のドビュッシーへの崇敬の念の顕現だ。楢崎洋子さんは、この作品が初演されたとき、「ドビュッシーが引用されるたびに、それまで流れていた武満のテクスチュアが中断されて異質なものが接ぎ木されたような印象を受けた」という。それこそまさに夢の歪曲と言えまいか。
一方、ユングの捉え方は実に形而上的だ。
このような夢の語りかけ(精神が深淵の水として存在しているという発見)は、意識の側からの激しい抵抗に出会う。というのは、意識は「精神(Geist)」を高い所にあるものと思いこんでいるからである。「精神(Geist)」はいつでも上から来るように思われる。下から来るものはすべて濁ったものや忌まわしいものである。このような捉え方から見ると、精神(Geist)が意味しているのは最高の自由、深みの上を漂うこと、この世の牢獄からの解放、それゆえ「生成」を望まないすべての臆病者のための隠れ家である。
~C.G.ユング/林道義訳「原型論(増補改訂版)」(紀伊國屋書店)P47
あくまで僕の勝手な印象だが、武満徹の場合、フロイト的な現実性とユング的スピリチュアリズムが上手に混淆されているところがミソだと思う。
世界が陰陽二元であることを天から仰ぎ見る武満の飛び切りの空想に僕は舌を巻く。しかも昼夜のシグナルを最初と最後に置き、武満の世界をリアルに、さらに幻想的に描こうと企図するナッセンの意志に僕は強く感化される。ここにあるのは、夢を借りた現実の厳しさであり、また、現実のような夢想だ。表題となる「夢の引用」に響くドビュッシーの「海」の物語に何より僕は現実を見る。
武満徹が亡くなって早四半世紀。
彼が存命のときにもっともっと彼の作品に触れておくべきだったと今さらながら後悔する。感性をくすぐる何とも心地良い音楽たち。