ノイマン指揮チェコ・フィル マーラー 交響曲第6番(1995.1録音)

マーラーが亡くなった年齢をとうに越え、ベートーヴェンの亡くなった年齢も昨年越えた。僕は今になってようやくマーラーの交響曲諸作が真に理解できるようになった気がする。

1903年夏には第6交響曲の第3楽章までがスケッチされた。1904年の成果は第6交響曲終楽章と第7交響曲第2、第4楽章、さらに《亡き子をしのぶ歌》の残り2曲、1905年は第7交響曲の残り3楽章である。そして1906年には、巨大な第8交響曲のスケッチが、なんとひと夏で仕上げられている。こうした子どもたち(マーラーは自分の作品のことをいつもそう呼んだ)の他に、この間にはマーラーとアルマの本当の子どもたちも生まれた。
村井翔著「作曲家◎人と作品シリーズ マーラー」(音楽之友社)P134

創作力旺盛な、グスタフ・マーラーが最も輝いていた時期の産物たる交響曲は、それぞれ異なる性格を持ち、それぞれに別の宇宙を体現していることがあらためてわかる。

・マーラー:交響曲第6番イ短調「悲劇的」
ヴァーツラフ・ノイマン指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(1995.1.23-26録音)

ヴァーツラフ・ノイマンの遺作となったマーラーの交響曲選集は、いずれも人後に落ちない名演奏だと思う。

「死にゆく存在」である人間の過酷な現実が作曲理念上の原点となった第6交響曲、そして人間の運命や宇宙の中のその意味を問い続けたマーラーがそうした地上での一切の苦闘を突き抜けた最後の境地で作曲した第9交響曲。今思えば、後半の5曲のうちからこの2曲が最後の録音として残されることとなったのは、最後まで元気で次の録音にも意欲を燃やしていたノイマンだっただけに偶然と言えば偶然なのであろうが、もしかするとノイマン自身の意図をも超えた、なにか深い意味があるような気もしてくるのだ。
(岩下眞好)
~PCCL-00304ライナーノーツ

因果は人間の意志、意図を超えるのである。時間と空間を超えて物事をつかむ視点、視座を持てば、起こっていることのすべてが腑に落ちる。

意志の固い、否、意志を超えたノイマンのマーラー。
交響曲第6番は、第1楽章アレグロ・エネルギーコ,マ・ノン・トロッポから何と生に溢れる、エネルギッシュな表現なのだろう。特に後半2つの楽章が素晴らしい。第3楽章アンダンテ・モデラートの慈愛に心底感動(こんなに自然体の素晴らしい音楽だったとはいままで気づかなかったと言えば大袈裟か)。そして、終楽章アレグロ・モデラートの、人生の苦悩も愉悦も、すべてを投影した音楽の堂々たる体躯。ノイマンの見通しの良い、全体観の優れた解釈に僕は思わず拍手喝采する。

ハンマーを含めて、この作品でマーラーが実現した新しい音色効果は、次の世代の作曲家たちにも大きなインパクトを与えたようだ。アルバン・ベルクは《3つの管弦楽曲》(1915)の第3曲「行進曲」でマーラーが使ったのと同じハンマーを使用しているし、一見、マーラーとは正反対のミニアチュア形式の作曲家、アントン・ヴェーベルンも実は音色旋律など、音色の効果に最もこだわった作曲家であり、ウィーンのアマチュア・オーケストラを指揮して、この交響曲を何度か演奏している。ヴェーベルンの指揮する第6交響曲に感激したベルクは、彼宛てにこんな手紙を書いている。「たとえ《田園》があろうとも、これこそ唯一の第6なのだ」
村井翔著「作曲家◎人と作品シリーズ マーラー」(音楽之友社)P232

マーラーの挑戦が後世に与えた影響は計り知れない。ノイマンのマーラーは永遠だ。

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