クラウス マルフィターノ プラッソン指揮トゥールーズ・カピトール管 グノー 歌劇「ロメオとジュリエット」(1983録音)

因果応報。因に縁が掛け合わされて果を成すならば、悪因を作れば悪果となし、善因を積めば善果となるのは自明の理。問題は、因果の法則は時空を超えるということ。不可思議な事故や事件の多くはこの理屈に因るといわれる。

悲劇の美しさはそこにある。人間誰しも、数千回の魂遍歴を省みれば、悪行に染まったことは一度や二度あろう。ただ僕たちはそのことを覚えていないだけなのだ。

功は功に帰し、禍は禍に帰すという。今生でどれほど人を助け、善根を施せども、それによって過去のすべてが帳消しになることはあるまい。一つ一つ、目の前に起こることに善処し、地道に丁寧に対応するしかない。そうやって命を紡ぐのである。

シェイクスピアの戯曲「ロメオとジュリエット」は悲劇だ。ただし、ジュリエットが亡くなったと誤解し、自ら命を絶ったロメオの行為はあまりに早合点だ。その意味では、ハッピーエンドの喜劇だと断言しても良いかもしれない。

シャルル・グノーの、いかにもフランス的なオペラ「ロメオとジュリエット」は美しい舞台と明朗な音楽に溢れる、素敵な作品だ。それは、あくまで死というものを愛の一つの形だと定義するポジティブな舞台だと僕には思われる。だから引っかかりがない。しかし、そこには官能がない(辛うじて終幕最終シーンにその匂いは漂うが)。物語の舞台がイタリアはヴェローナであるゆえか、いかにもラテン的センスに満ちる音調がすべてを直線的に照らす。

同じフランス人とはいえ、ベルリオーズの方法は違う。ワーグナーが心底感激したように、そこにはゲルマン的な暗鬱さと、大仰な音楽的な仕掛けと色合いが音楽を支配し、聴く者を官能の世界に巻き込むのである。

・グノー:歌劇「ロメオとジュリエット」
アルフレード・クラウス(テノール、ロメオ)
キャサリン・マルフィターノ(ソプラノ、ジュリエット)
ジョセ・ヴァン・ダム(バス・バリトン、ロラン神父)
ジーノ・キリコ(バリトン、メルキュシオ)
アン・マレー(メゾソプラノ、ステファノ)、ほか
ミシェル・プラッソン指揮トゥールーズ・カピトール管弦楽団&合唱団(1983録音)

グノーの方法は明快だ。それにプラッソンの音楽作りがとても直接的で、また音楽的で終始美しさの極み。それにしてもクラウスとマルフィターノが織り成すロメオとジュリエットのいかにも人間らしい恋愛の真理を見事に描き切る音楽に、ただ無心に寄り添うときの癒しの力よ。この際結論が云々というのは横に置こう。終幕の劇的で力強くも静かな音楽に、生きることの儚さと勇気を思う。

ロメオ:
聞こえるかい、ジュリエット!
ひばりがもう朝を告げているよ!
いや、まだ朝じゃない、あれはひばりじゃない!
あれは優しい小夜鳴き鳥、愛を告げに来たのだよ。

ジュリエット:
ああ!ひどい人!この毒を
私に残しておいてはくれなかったのね!
(瓶を捨て、手を胸に当てて服の下に隠し持っていた短剣を探り当て、取り出す。素早く剣を抜く)
ああ、よかった、これがあったわ!
(自分を刺す)

ロメオ:
(半分体を起こし)
神よ!ジュリエット、何をした?

ジュリエット:
(ロメオの腕の中で)
さあ、これでいいのよ!
(短剣を落とし)
ああ、なんという幸せ
あなたと一緒に死ねるなんて!さあ、キスして!愛してるわ!

二人:
神よ!神よ!どうか我らをお許しください!
(二人とも息絶える)

オペラ対訳プロジェクト

アルフレード・クラウスのあまりの名唱よ。

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