
新保祐司さんの、「エクセントリックということ」と題する、クナッパーツブッシュのブルックナーについての小論に次のようにあり、実に面白い。
Eccentricとは、ec・centricであり、ec=exである。つまり、centerから「外に」あることである。常軌を逸している、あるいはそういう人、すなわち変人、奇人の意味に普通、使われる。しかし、eccentricという言葉について、20世紀最高のプロテスタントの神学者カール・バルトが実に深い捉え方をしている。バルトの場合は、もちろん、exzantrischとドイツ語になるが、これをバルトは、「中心を外に持って」と釈くのである。
『和解論』(井上良雄訳)の中で、「使徒」について「彼等は、いわば『中心を外に持って』(exzantrisch)生きる。」と述べている。そして、「人間がその中心においてこそ自分自身のもとにいないということが、信仰というものの事情である。またわれわれは、次のように言ってもよい、すなわち、人間は、ただ自分自身の外部においてだけ自分の中心におり、従って自分自身のもとにいるのだ、と。」と書いている。
このような意味で、ブルックナーやクナッパーツブッシュはエクセントリックなのであって、単なる奇人、変人のたぐいではない。そして、ブルックナーやクナッパーツブッシュにとって、「外」とは、神であり、芸術家の次元では「音楽」である。「音楽」が彼らの「中心」になってしまったのであって、人間などどうでもよいのである。それが奇人、変人の様相を持とうが、持つまいが、重要なことでも何でもない。
~「音楽現代」2008年7月号(芸術現代社)P60-61
外も内もなく、すべてが一体であると悟った奇人、変人こそ聖人と言えるのかもしれない。
俗物根性丸出しの聖者ハンス・クナッパーツブッシュの「パルジファル」が素晴らしいのは、彼がそもそも愚者パルジファルの本性に通じているからだと思うが、同じく(たとえ改竄された版を使おうと)彼のブルックナーが素晴らしいのは、野人ブルックナーの本懐を自身の内側にも見ているからだろうと僕は思う。
巨大な有機物。特に、交響曲第8番ハ短調終楽章の揺るがない圧倒的音響に、初めて聴いたときから40年を経ても、相変わらず感動し、心が打ち震えるのは、そこにはもはや単なる刷り込みを超えた「真実」があるからだろう。
そしてまた、以前はあまりに遅々として感興を削いだ「ジークフリート牧歌」も、何と優しく心に届くことだろう。「ローエングリン」も「パルジファル」も、クナッパーツブッシュの十八番であり、ワーグナーへの心酔と信奉が間違いなくある。この深々とした呼吸の奧妙さというのか、これぞワーグナーの真価の発露であり、幾度聴いても手放しの賞讃しか出てこない(クナッパーツブッシュへの偏愛と言われようが)。
長らく座右の音盤。
[…] ※過去記事(2020年9月8日) […]