バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル マーラー 交響曲第7番(1985.11&12Live)

三島由紀夫の「近代能楽集」に寄稿したドナルド・キーンの解説には次のようにある。

能とギリシア古典劇は共通点が多いとよく言われている。仮面劇であって、役者が歌ったり舞ったりすることはたしかに共通だし、地謡に符合する合唱隊などもそうだが、一番似通っている点は、その永遠のテーマであろう。欧米では何百年前から「近代ギリシア劇」を上演しているし、三島氏も最近エウリピデスの「ヘラクレス」に拠って「朱雀家の滅亡」を発表した。能もギリシア古典劇も三島氏をインスパイアする力を持っている。
三島由紀夫「近代能楽集」(新潮文庫)P256

人間にとっての永遠のテーマとは、僕たちはどこから来てどこへ去って往くのかという、生と死の問題だろう。あの世とこの世をつなぐ能舞台の幽玄な佇まいは、静かでまた動きの緩やかな世界観の美しき表象だ。
キーンは続ける。

最も古い「近代能」は恐らく豊臣秀吉のために書かれた「太閤能」であろう。世阿弥の能には「近代的」な要素が欠けていた。義満公の時代の綺羅びやかな雰囲気を思わせる曲があったら、歴史家たちにとってどんなにかありがたいだろうが、不敬を恐れて同時代の問題を避けたようである。が、秀吉は能役者としての技倆を大変自慢していて、好んで「関寺小町」という秘曲中の秘曲を舞ったことだけに満足しないで、自分の功績を脚色させた能のシテをも舞った。これより「近代的」な芝居はあるまい。
(ドナルド・キーン)
~同上書P256

「風姿花伝」とは、能楽の聖典である。ここには能に限らず、あらゆる芸術に対しての大いなるヒントがあるように思う。

問。能に花を知る事、この條々を見るに、無上の第一なり。肝要なり。または不審なり。これ、いかにとして心得べきや。
答。この道の奥儀を極むる所なるべし。一大事とも、秘事とも、ただ、この一道なり。先づ、大方、稽古・物學の條々に委しく見えたり。時分の花・聲の花・幽玄の花、かやうの條々は人の目にも見えたれども、その態より出で来る花なれば、咲く花の如くなれば、また、やがて散る時分あり。されば、久しからねば、天下に名望少し。ただ、誠の花は、咲く道理も、散る道理も、心のままなるべし。されば、久しかるべし。

(第三問答條々)
世阿弥著/野上豊一郎・西尾実校訂「風姿花伝」(岩波文庫)P58

芸事は真理に基づくものであらねばならないのだろう。それが本物だというならば。

グスタフ・マーラーがまさか世阿弥の「風姿花伝」を知っていたなどとは思えぬが、交響曲第7番の「作り」などは、まるで能の世界の体現のようだ(あくまで個人的な見解だが)。「影のように」と指定される第3楽章スケルツォは、それこそ能舞台の橋掛かりのような役割を秘める。何とも不安げに刻まれるリズムに死の翳と生への執着が交錯する。特に、晩年にバーンスタインがツィクルスを開始したその劈頭を飾るのが交響曲第7番だった(当時国内盤は2枚組6,600円!)。マーラーの交響曲の中でも決してポピュラーとは言えないこの作品の、中でも第3楽章スケルツォの夢想にバーンスタインの気概と自信を思う。

・マーラー:交響曲第7番ホ短調
レナード・バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルハーモニック(1985.11.25-12.3録音)

スケルツォの前後に位置する「夜の音楽」は、第2楽章が此岸を、そして第4楽章が彼岸を表わすのだろうか。交響曲ではほとんど使用されることのないギターやマンドリンの小さく美しい音が第4楽章の憧憬を一層煽る。バーンスタインは生への希望を静かに、そして死への憧れを安らかに歌う(死はやはり恐れるものではない。天寿を全うすれば完全なる自由があるのだ)。そして、巷間問題視される終楽章のから騒ぎは、実に抑制気味に表現される。有限の世界からの解放と言えど、輪廻の中にある以上(ある意味)苦悩は続くのだ。バーンスタインは密かに、あるいは無意識にそのことがわかっていたのかもしれない。

私たちの時代はマーラーの時代です。彼が書いたものはすべて、私たちの人生と密接に関わっています。また、そうしたことは、2つの時代に、つまり、息を引き取りつつある時代と嵐の荒れ狂う新しい世紀との間にまたがって、人間として、また芸術家としての固有の人生を生きた作曲家の大きな取り柄になっていると私は思います。
バーンスタイン&カスティリオーネ著/西本晃二監訳/笠羽映子訳「バーンスタイン音楽を生きる」(青土社)P141

人気ブログランキング


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む