
晩年のブラームスの、厳めしい肖像写真の印象とは異なる、無邪気で人間らしい面がリヒャルト・フェリンガーによって報告されているが、それがまた実に面白い。
ブラームスは、日常生活の手間を軽減し、時間を節約できるものならば、なんでもありがたがっていた。ここ数年の画期的な出来事といえば、わが家の数部屋に電気照明が入ったことだろう。スイッチを押すだけで部屋がパッと明るくなるので、お客たちは驚嘆していた。父は、ブラームスの部屋に電気照明を入れたいと思ったが、(訳のわからないことを言って)不安にさせてもいけないので、(内緒で)照明器具を設置して、驚かすことにした。トゥルクサ夫人を計画に引きずり込んで、細かい設置場所を検討。入念に打ち合わせをしたスタッフは、ある日ブラームスが食事に出かけたのを幸い、設営隊となって各部屋に散った。敗戦と照明器具の設置作業は短時間で終わり、ブラームスが何も知らずに帰宅すると、家中が電気で明るくなっていたのである(1892年4月9日の出来事)。当時ウィーンの個人住宅では、本当に珍しいことだった。
~ホイベルガー、リヒャルト・フェリンガー著/天崎浩二編・訳/関根裕子共訳「ブラームス回想録集2 ブラームスは語る」(音楽之友社)P262-263
当時すでに相当の社会的地位を得て、裕福だったブラームスらしいエピソードだ。上記の計画に関与したトゥルクサ夫人が自分の母に宛てた手紙に次のように書いている。
ブラームス先生は、何だか子供みたいに電気照明を喜んでおられました—周りには悟られないようにですが。昨夜はお出かけの予定でしたのに、ずっと家におられて、家中全部の電灯に一晩中、煌々と明かりをつけておられました。誰もいない部屋もです。先生がこんなに喜ばれたことは、なかったと思います。
~同上書P263
ブラームスの音楽の、純粋無垢さは、彼の子どものような一面の発露なのだろうと思う。中でも、生涯にわたって筆を執った歌曲に見る気楽さ、喜び、哀しみすら包含し、超える愉悦。そして、その真意を、先頃亡くなったクリスタ・ルートヴィヒが、レナード・バーンスタインのピアノ伴奏を得て、実に多彩に、そして開放感豊かに歌う様子に思わず感動する。
ウィーンはコンツェルトハウスでの実況録音。
ジプシー民謡を好んだブラームスの渾身作「ジプシーの歌」が素晴らしい。全盛期のルートヴィヒの芯のある歌唱が筆舌に尽くし難い。
わが家には、どんどん大きくなるブラームス音楽の宝石箱がある。その中でもひときわ輝かしく、限りなく内面的で繊細なダイヤモンドがこれだ。「嘘をつかないで、裏切らないで。こんなに好きなのに、わからないのかい」(《ジプシーの歌》第7曲5-6節)
~同上書P250
ひと際美しいのが、ピアノ協奏曲第2番第3楽章のチェロ独奏のテーマから引用された「まどろみはいよいよ浅く」作品105-2。深沈たる表情のルートヴィヒの歌に、バーンスタインのピアノが哀感をもって響く様。
だれも眼をさましてあなたのために戸を開けない。私は眼をさまして、はげしく泣く。sぷだ、私は死ななければならないだろう。私が蒼く冷たくなったときには、ほかの女にあなたは接吻するだろう。
(ヘルマン・リング詩)
~「作曲家別名曲解説ライブラリー7 ブラームス」(音楽之友社)P470
あるいは、セレナード「月は山の上に」のバーンスタインとの掛け合いの絶妙の間、その喜び!そして、ルートヴィヒの歌う「サッフォ頌歌」の優しさよ(歌の心情を色彩感豊かに歌い上げるバーンスタインのピアノ伴奏の妙!!)。