ブルックナーを理解する上で絶対必要な事は、急がせる、せきたてる、ということが音楽にないこと。いらいらして駆り立てることがあってはならないが、テンポがよどんだり、音楽の生命力がなくなり透明でなくなったら、それはもうブルックナーではない。
(ロヴロ・フォン・マタチッチ)
~土田英三郎著「カラー版作曲家の生涯 ブルックナー」(新潮文庫)P186
最後の来日公演のリハーサル中に、マタチッチがオーケストラの楽団員に向け発した言葉だそうだ(徳永兼一郎談)。それは、ブルックナーの本質を見事に突いたもので、実際に彼の演奏は、理想的なテンポで終始豪快に鳴り、かつ繊細に響く。
今から50余年前、新宿の東京厚生年金会館でのNHK交響楽団とのブルックナーの素晴らしさ。全編を通じて急がせる、あるいはせきたてることはないものの、微動だにしないテンポではなくむしろ頻繁な伸縮のある、しかし、すべてが音楽の流れを遮らない、適切な表現によってブルックナーの信仰心が表現される。
周知のごとく、ブルックナーは第7番のアダージョで、リヒャルト・ワーグナーの葬送を表現した。彼の敬虔な心情は、そのために正しく確信に満ちた音調を見出しており、だからこの音楽が(フェルディナント・レーヴェの金管のための編曲で)、ウィーンのカールス教会で1896年10月14日に執り行われた彼自身の葬儀の際に鳴り響いたことも理解できる。
それにもかかわらず、このアダージョを宗教的な音楽と名付けようと思う人はほとんどいないだろう。なぜならこのアダージョは、4楽章からなる交響曲の一部としてその全体に属しており、それに続くスケルツォ楽章やフィナーレ楽章が、宗教的な性格と相反しているからである。
~レオポルト・ノヴァーク著/樋口隆一訳「ブルックナー研究」(音楽之友社)P46-47
ノヴァークの指摘するこの点にこそ、交響曲第7番の意義があるのだと僕は思う。聖なるものと俗なるものが混淆する、中で第2楽章がクライマックスを築くこの形こそ、ブルックナーの本懐なのである。しかも、終楽章に関しては、当時の専門家は誰もが理解できなかった。
フーゴー・ヴォルフは、はじめ「特に第7交響曲の終楽章を支離滅裂で理解不能」と見たし、ヘルマン・レーヴィにとってでさえ、「多くのもの、特に終楽章においては、よく理解できるというわけではなかった」のである。彼は、「終楽章を支離滅裂で不可解であると思った。作品を救うためには、この楽章はかなり短くするか、さもなければ完全に書き直さねばならない」と考えた。ブルックナーはレーヴィを納得させることに成功した。その結果レーヴィは、何回かの練習の後ついに感激して、エックシュタインがさらに報告するところによれば、「この交響曲の終楽章がいまはじめてわかりかけてきた。この楽章こそはもっとも美しい楽章であって、その中の1小節たりともカットしてはならないし、いかなる部分も変更してはならない」と表明したというのである。フーゴー・ヴォルフもまた、しばらくして自説を変えた。彼はエックシュタインのところへやって来て「まさに終楽章こそが自分にとってはもっとも偉大な楽章に思えてきた」と告げて、エックシュタインを驚かせたのである。
~同上書P102
ヴォルフやレーヴィが言うように、終楽章が果たしてもっとも偉大な楽章かどうかは僕にはわからない。しかし、アダージョ楽章と同様、少なくともマタチッチの演奏を聴く限りにおいて、終楽章も実に見事だ。
・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ノヴァーク版)
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮NHK交響楽団(1969.5.9Live)
何という「ため」と「解放」の連続よ。終楽章の、特に冒頭に見るテンポの自然なコントロールにマタチッチの才能を思う。何より当時のN響の健闘ぶりが素晴らしい。もちろん多少の瑕は致し方ないが、金管群の渾身の咆哮などため息が出るくらい(良い意味で)。
終演後の聴衆の歓喜も一入。