
抑圧からの解放。音楽の隅から隅にまで「我慢」がある。同時に抑え込まれた何かが爆発する。何という心地良さ。
シャルル・ミュンシュの棒は劇的だ。どの瞬間も実に熱い。何より音楽の内燃する躍動があまりにも素晴らしい。ベートーヴェンやブラームスという純正の独墺音楽に対する相性も抜群だが、辺境(?)、例えば露西亜音楽への順応性にも巨匠は長けている。
ソフィスティケートされた中に潜む土俗性とでも表現しようか、聖と俗が相見える相対美が、特に晩年の彼の演奏の特長であり、美しさの秘密であるように僕は思う。
敬愛するフランツ・リストに捧げられた「中央アジアの草原にて」の、エキゾチックなロシアの歌。リストの交響詩を髣髴とさせる音の絵画は、化学者ボロディンの計算された筆致ならでは。ここでのミュンシュの自由さが美しい。そして、「ホヴァンシチーナ」からの抜粋は、ムソルグスキーの爆発する荒々しさと同時に、空ろで静かな精神性を体現する名演奏。あるいは、リムスキー=コルサコフ最後の作品である歌劇「金鶏」からの抜粋曲のエキゾチックな響きと、猛烈な音圧にミュンシュの本気を思う。
この翌年にミュンシュは急逝する。
あまりにもエネルギッシュなパフォーマンスに、逆に人生の儚さを思う。
まさに死をもってミュンシュは呪縛から解放されたのだ。
それほどに土臭いロシアの音楽たちが、生き生きと鳴り響く。嗚呼、世界よ・・・。