私の人生の思い出と、完全な失聴というカタストロフィーを描いた。
(ベドルジハ・スメタナ/佐川吉男訳)
音楽家にとって致命的な耳疾は、ベートーヴェンの例、あるいはフォーレのケースを考えても、芸術的にはマイナスどころかプラスに働くように思われる。天才にとっては身体の欠陥などどこ吹く風、むしろ心の耳を獲得できたという意味でその病気の役割(?)は大きい。
自らの生涯の喜びと苦悩を振り返った、極めて個人的な弦楽四重奏曲だが、その内容は実に普遍的だ。憧れや不安を音化する第1楽章アレグロ・ヴィーヴォ・アパシオナートの激性は、アルバン・ベルク四重奏団の名演奏をもってその音楽性に止めを刺す。何と活発で、また安息の音楽なのだろうか。
ウィーンはコンツェルトハウスでの実況録音。
第2楽章アレグロ・モデラート・ア・ラ・ポルカは、過去の回想。苦悩を回避するために作曲家は、楽しかった思い出を描く。加速と減速の対比の妙。音楽は盛り上がり、また沈潜する。そして、第3楽章ラルゴ・ソステヌートの憂鬱な安息。ここで作曲家は、後に妻となった少女との初恋の思い出を音化するが、優しくも切ない、美しい主題の思い入れにこの弦楽四重奏団のスメタナへの特別なる愛情を思う。白眉は終楽章ヴィヴァーチェ。失聴の激しい不安の発露に対して、終結のやるせない諦念を最後には受け入れるかのように消えゆく音楽の力よ。
そしてついに、おそるべき高い音(高いホの音)が私の残酷な運命の前兆として耳のなかに響き、いまや私を永久にわれわれの芸術に耳を傾けたり、それを喜んだりする幸福から切りはなしてしまった耳の疾患がおそう。すでに第1楽章で警告としてあらわれた拒否できない宿命への服従であり、よりよい未来に対するひと筋の光線がある。
(ベドルジハ・スメタナ/佐川吉男訳)
少なくとも生み出された音楽には希望がある。未来は明るいのだ。