
自死を選択したデュオ・クロムランクの二人がマルタ・アルゲリッチにインタビューをした記事が面白い。彼らはいずれも自己破滅型の生き方(?)を選んだ(選んでいる)人たちだ。それゆえに彼らの奏でる音楽は儚く、途轍もなく美しい。
妙子 マルタ、ドストエフスキーに陶酔してたけど。
マルタ そう、17歳のときね。「罪と罰」を読んですごく興奮したの。そして、私がラスコーリニコフだったら何ができるかと考えたの。それで、私がやりたい音楽会、好きな曲、私にとって重大な演奏会を選んでキャンセルしたのね。でもそれが重荷になって耐えられず、カミソリで指を切ったの。予定されていた演奏会の主催者に、弾けないって電報を打ったの。届かなかったのか主催者の方が迎えにみえた。そして私、指、見せたの。
パトリック 何が起こったか説明したの?
マルタ ノン! 演奏会の場所はエンポリーで、泊まっていたフィレンツェから遠くなかった。迎えの人が「みんな待ってますよ」って言うの。それで指を見せた。指が痛くて弾けない状況を分かってくださって、結局演奏会は2,3ヶ月後にしていただいたの。1週間後ボルツァーノで演奏会があったけど、弾きたくても痛くて弾けなかった。
パトリック それはまさに「罪と罰」だね。本を読んだすぐ後だったの?
~「ザ・ピアノ&ピアニスト」(読売新聞社)P95
夜型であるアルゲリッチのインタビューが始まったのは夜中の1時だったらしい。床に座り込んだマルタに対してソファに座るクロムランク夫妻。その現場を想像するだに妙に可笑しい。
闇を抱えれば抱えるほど音楽の質は深まるのかもしれない。音楽とは文字通り「負の美学」なのだろうと思った。25歳のマルタ・アルゲリッチのショパンは、切れ味鋭く、しかし潤沢で、一分の隙なくあまりに美しい。
自らを傷つけてしまう内向性が音楽にどれほどの輝きをもたらすのか。
ソナタなど、晩年の、同様に自身の内面に閉ざしていったショパンの精神に同期する、ショパンの魂が乗り移ったような演奏はおそらく唯一無二だろう。中でも「幻想ポロネーズ」の悲哀満ちる暗澹たる光輝が聴く者に及ぼす魔性。あるいは「英雄ポロネーズ」の、いとも容易くピアノを操りながら内面から発せられる時空を超える途方もない力とエネルギー。
しかし白眉は、作品59の「3つのマズルカ」だ。
第1番イ短調の憧憬と哀愁。また、静かに内観する第2番変イ長調の透明感。あるいは、まるで弾き飛ばすようにエネルギーを発散する第3番嬰ヘ短調の灼熱。
これで世界が終わるわけではありません。
コロナ禍が落ち着けば再び会えます。
そのときを楽しみにしています。
第22回別府アルゲリッチ音楽祭はどうやら中止になったようだ。
アルゲリッチのコメントの最後の言葉に切実な思いがこもる。
それでも僕たちは、すべてが調和に向かっているのだということを忘れてはなるまい。