「ミサ・ソレムニス」作曲のおおよそ4年間のベートーヴェンの動向が興味深い。
ベートーヴェンは8月末まで黄疸に苦しみヴィーンに戻ることはなく、9月に入っていくぶん回復してきて、シュタウデンハイム医師の勧めで9月7日にバーデンに保養に行った。そこで始めたのがまた「パンのための仕事」で、翌1822年初めにかけての半年弱の間、ピアノ・ソナタ(Op.110とOp.111)の作曲に従事した。それが終わった1822年3月頃から、とくにまだ手を付けていないアニュス・デイ楽章ドナ・ノービス部分を中心として、ミサ曲を再開し、それが8月頃まで続いた。9月には《献堂式》の10月3日上演に向けての作業に取り組むことになった。それが終わると気分を一新したのかシンフォニー第9番のスケッチを試みるが、すぐに打ち切って、3年間放置していた《ディアベッリ変奏曲》(Op.120)を仕上げようと決意する。
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築3」(春秋社)P981
この間の出版社との手紙のやりとりは実に詳細にまで及んでおり、この時期、ディアベリ社からフルート五重奏曲や4手用のソナタまで依頼されていたことがわかって面白い。しかしながら、生活のための仕事、そしてミサ曲や交響曲第9番という大仕事に追われる中、度重なるディアベリ社の督促に業を煮やし、ついにベートーヴェンはキレた。
いったい何のためにあなた方(カッピ&ディアベッリ)はまだソナタを私から望んでいるのか!あなた方は、私よりはるかによくできる作曲家の大軍勢を持っているではないか、各人に1小節を与えれば、予期しないような素晴らしい作品が?
(1825年7月20日付、カッピ&ディアベリ社宛)
~同上書P984
心身ともに疲弊していたベートーヴェンの堪忍袋の緒もさすがに、というところだったのだろう。大崎さんは以下のようにまとめる。
《ミサ・ソレムニス》作曲の舞台を成した長い4年間は病と生活の心配に取り囲まれており、その前後それぞれ1年半、すなわち1817年後半から1824年6月まで7年に渡って、大ソナタOp.106からバガテルOp.126まで「パンのための」ピアノ作品の作曲が点在した。
~同上書P984
まさに聖俗相まみえるベートーヴェンの本懐が、ギリギリのところで精査され残ったといえまいか。それこそ、しつこいが楽聖の内発的大作として表出した人類の至宝たちなのである。
珠玉の作品たちが、レッグに見初められた若きカラヤンによって再生される様子に言葉がない。中でも、「ミサ・ソレムニス」の歴史的名演がここにあり、このミサ曲を愛する者必聴の演奏だと僕は思う。
結局カラヤンは年齢を重ねるにつれ、プライドというエゴが邪魔をして、それが演奏行為にまで浸透したおかげで、ポピュラリティは得ても作品の真髄を描くだけの誠心をどこかにおいて来てしまったのだろうと僕は思う。少なくともフィルハーモニア時代のカラヤンの演奏はどれもが真摯で謙虚。作品に寄り添い、あくまで音楽を正統に鳴らそうという意志が働いているのである。
「キリエ」から想念のこもった佳演。ぐっとテンポを落として、重厚に奏される「グローリア」も決して重くはなく、むしろ颯爽としており、難なく聴ける。やはり第4楽章サンクトゥス以降が絶品であり、確かに病の最中にあったベートーヴェンの不屈の精神と、病を癒すであろう祈りの思いが投影された音楽が見事に再現されており、音楽の美しさが他の誰のものより長けている。特に、ベートーヴェンが1822年3月に作曲を再開した第5楽章アニュス・デイの第2部「ドナ・ノービス・パーチェム」の楽譜箇所には「内的な平安と外的な平安を祈りつつ」と記されており、ベートーヴェンの信念を明確に祈念しながらカラヤンは夢想の中で棒をとるようだ。