ベルリンスカヤ ボロディン弦楽四重奏団 シュニトケ ピアノ五重奏曲ほか(1990.2&6録音)

過去の迷宮に深く入り込んでいったシュニトケは、ロマン主義のスタイルにたいする皮肉な注釈者であることをやめ、かわりに自身がロマン主義の幽霊になった。究極のロマン主義神話、ファウストの生と死の魔力のとりこになり、多くの戦後の作曲家と同じように、トーマス・マンの小説を読んだ。この小説から「途方もないような影響を受けた」と彼は述べている。
アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽2」(みすず書房)P558

アルフレート・シュニトケ(1934-1998)。
みいら取りがみいらになったとは、よく聞くが、シュニトケの音楽に垣間見える浪漫性に僕は心が弾む。ドイツ的魔神性を主題にしたマンの小説は、近代世界の、あるいは現代世界の陥った、相対世界における人間の思考(ヒューマニズム?)の限界を露呈した人類への警告だとも考えられる。

とまれ、『ファウストゥス博士』においては人間が排除された苦悩—そこで芸術自体が芸術の論理によって自らを成立させていく、という芸術の自己閉鎖性の前に立たされた苦痛が問題になっている。
これは別の言葉で言えば、人間がこの世界から疎外され、それと真の生産的な関係に入ることができず、ルネサンス以来個性の独立をかちとったその同じ主体が、いわば過剰に与えられた主観的自由のために空虚な存在へと転落してゆくことなのだ。
「自由は、しばらくの間は、人が自由から期待したものをなし遂げる。しかし自由とは主観性の別称に他ならない。そして主観性はある日もはや自分に耐えられなくなる。主観性はいつか自発的に創造的でありうる可能性に絶望して、客観的なものの中に庇護と安全とを求める。自由は常に弁証法的転換に傾く。自由はたちまちのうちに拘束されたものとしてのおのれを認識し、法則、規律、強制、組織への従属の中でおのれを実現する。」(『ファウストゥス博士』)
主観的な恣意性の中に生きるほかない近代人にとって、生産的に世界と結びつき、それに拘束され、その方向に沿って作業することが、強い喜びとなる。(ここにもファシズムへの潜在的な依存の心理がかくされていることに注意すべきであろう。)

辻邦生「トーマス・マン」(岩波書店)P246

現代文明を、「長いものに巻かれろ」的資本主義(?)に疑問を呈するマンの思想の正当性、というかやるせなさ。辻邦生の指摘は当を得ている。

人間は、どこまでいっても相対の中で生きているということだ。
相対という仮の世界の中でいかに真を見極め、見性体験に至るかどうか、それこそ各々に課された宿題なのだが、文字通り「主観的な恣意性の中で」洗脳された僕たちに残された道は、思考や感情を離れ(放下し)、いかに「我なし」の状態を作り出すかどうかしかないように思う。
そもそも『ファウストゥス博士』におけるこの「自由」にまつわる記述は、シェーンベルクの十二音技法へのアンチテーゼから発せられたものであることが鍵だ。

行き着くところまで行った音楽芸術を鑑みたとき、おそらく彼は今一度原点に立ち還ることを知らしめられたのではなかろうか。

・シュニトケ:弦楽四重奏曲第3番(1983)
・マーラー:ピアノ四重奏曲イ短調(アルフレート・シュニトケ補筆完成版)(1988)
・シュニトケ:ピアノ五重奏曲(1972-76)
ボロディン弦楽四重奏団
ミハイル・コペルマン(ヴァイオリン)
アンドレイ・アブラメンコフ(ヴァイオリン)
ディミトリー・シェバリーン(ヴィオラ)
ヴァレンティン・ベルリンスキー(チェロ)
リュドミラ・ベルリンスカヤ(ピアノ)(1990.2&6録音)

シュニトケ編曲によるマーラーの未完作品のあまりの美しさ。もちろんボロディン弦楽四重奏団の濃厚な演奏の成果ではあるが、作曲者の心底に眠る彼自身の「生と死の魔力」の証であるように僕には思える。

シュニトケは、ロシア系ユダヤ人とヴォルガ地方のドイツ人の系統の、何かにとり憑かれたような血色のよくない男で、あきらかにショスタコーヴィチの後継者と言える。優れた皮肉屋であったシュニトケは、自身が「多様式主義」と呼ぶ音語を発展させ、千年におよぶ音楽の残骸を騒然とした意識の流れとして寄せ集めた。中世の聖歌、ルネサンス時代のミサ、バロックの装飾音型、古典的なソナタの原理、ウィンナー・ワルツ、マーラー風のオーケストレーション、一二音書法、アレアトリーなカオス、そして現代風のポップの感触などである。シュニトケは友人にこう語っている。「僕が美しい和音を紙のうえに書くと、たちまちそれはさびついてしまう」。
~同上書P557-558

歴史上のすべてを統合することをシュニトケは願ったのだろう。
世界がそれに追いつけたかどうかは別にして、彼の創造物には間違いなく魔力がある。
弦楽四重奏曲第3番の「千年におよぶ音楽の残骸」の引用こそ、(ある意味)ショスタコーヴィチを超える二枚舌(?)の革新!

そして、亡き母を追悼して作曲されたピアノ五重奏曲は、ここでもショスタコーヴィチの影響が感じられるが、全編にわたる心の悲痛な叫びは、完成までに何年もかかったことが裏付けとなるように(様式上の様々な葛藤のせいらしいが)昇華されがたく、重苦しい。しかし、最後には解決され(第5楽章モデラート・パストラーレ)、文字通り牧歌的な、静謐な天上の調べと化していくのである。

ボロディン弦楽四重奏団の渾身の演奏が素晴らしい。


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