ヴィントガッセン ブラウエンスタイン クリュイタンス指揮バイロイト祝祭管 ワーグナー 歌劇「タンホイザー」(1955.8.9Live)

晩年のクナッパーツブッシュの、ミュンヘン・フィルとのあの色気のない、しかし音楽の細部までもが見通せるブルックナーやワーグナーの録音を髣髴とさせる、1955年バイロイト音楽祭の指折りの記録。溌溂たる音楽の生命力は並大抵でない。

ヴァーグナーの作品の諸理念は、永遠の人間性にもとづいているがゆえに、時代を超えて通用する。これに対して、ヴァーグナーの舞台装置ならびに演出上の指定は、もっぱら19世紀の同時代演劇にのみ通用するものである。それを〈原作尊重〉方式で上演しようとすることは、かつては理論的に考えうることではあったにしても、もはや今日のヴァーグナー上演を実現させる基準ではない。ヴァーグナーの原型的な音楽劇を、われわれの時代の舞台上で形象化しようと試みるにあたって、100年間の間に不毛なものとなってしまった舞台装置ならびに動作の図式の代わりに登場しうるものは、ただ〈母たちの国〉への遡行をあえて行なおうとする再創造の精神活動だけなのである。
(ヴィーラントによる戦後バイロイト音楽祭の方針)
清水多吉著「ヴァーグナー家の人々—30年代バイロイトとナチズム」(中公新書)P178

舞台装置は最小限、ライトの投影が織りなす光と翳による場面転換、あるいはスポット・ライトに視線の集中化など、徹底的に非リアリズム的手法を採用する、いわゆる「ヴィーラント様式」は、人間の主観的心象風景を客体化するための手法だと今となっては認識されるが、実際のところは戦後の物資不足による経費の問題や時代の風潮の影響によるものだった。

1951年以来、音楽祭は多くの国々からの人々の集いの場となっている。ここに集る人々は議論好きで、また大部分は若く、ヴァーグナーを、19世紀ロマン派の問題多い代弁者としてではなく、アイスキュロスやシェークスピアやカルデロンのような、永遠の形象として見ているのである。
~同上書P179

同じくヴィーラントは、戦後の新様式感について、ワーグナーを、限定的な時代様式に閉じ込めるのでなく、永遠へと開放するための方法だったと語る。
この時代のバイロイトで名演奏を繰り広げたのがベルギー出身のアンドレ・クリュイタンスだ。

1955年の歌劇「タンホイザー」を聴く。何と動的、かつ劇的、そして魂を抉る演奏であろうか。

・ワーグナー:歌劇「タンホイザー」
ヨーゼフ・グラインドル(チューリンゲンの領主ヘルマン、バス)
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(タンホイザー、テノール)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ、バリトン)
ヨーゼフ・トラクセル(ヴァルター・フォン・フォーゲルヴァイデ、テノール)
トニ・ブランケンハイム(ビーテロルフ、バス)
ゲルハルト・シュトルツェ(ハインリヒ・デア・シュライバー、テノール)
アルフォンス・ヘルヴィヒ(ラインマール・フォン・ツヴェーター、テノール)
グレ・ブラウエンスタイン(エリーザベト、ソプラノ)
ヘルタ・ヴィルフェルト(ヴェーヌス、ソプラノ)
フォルカー・ホルン(牧童、ソプラノ)
シェーネベルク少年合唱団(小姓、ソプラノ/アルト)
アンドレ・クリュイタンス指揮バイロイト祝祭管弦楽団&合唱団(1955.8.9Live)

繰り返し聴くにつれ、ワーグナーの本質や、そして「タンホイザー」の真髄が、手に取るように見えてくる逸品。第1幕第3場巡礼たちの歌に呼応するヴィントガッセン扮するタンホイザーの祈り、内なる吐露に心が動く。

ああ、罪の重荷は私を押さえ
もはや堪えられぬほど。
さればこそ休息を欲せず、
喜んで辛苦をえらぶ。

アッティラ・チャンバイ/ディートマル・ホラント編「名作オペラブックス16 ワーグナー タンホイザー」(音楽之友社)P69

フィッシャー=ディースカウ演ずるヴォルフラムの「夕星の歌」(第3幕第2場)は、少々癖のある歌唱だが、むしろその直後の管弦楽による力のある演奏に心が弾む。

まず最初、私にはこの音楽が前から知っているものであるかのように思われました。しかしあとでよく考えてみると、どうしてこんな錯覚に陥ったのかが判りました。すなわち、この音楽は自分の音楽であるかのように私には思えたのです。人間はみな愛するように定められているものを再認識するものですが、私はあなたの音楽をそのように聴いたのです。機知を解さない人にとってはこの言葉は全くのお笑いでしょう。とりわけ私のような音楽のことが解らない人間が、また受けた教育がウェーバーやベートーヴェンのいくつかの名曲を聴く(大いに楽しんではいるのですが)ことに限られているような人間が、こんなことを書くと。
(1860年2月17日付、シャルル・ボードレールからワーグナーへの手紙)
~同上書P259-260

自身を素人だと揶揄するような人の心まで捉えるワーグナー音楽の力よ。ボードレールはパリで最初のワグネリアンだが、それほどにワーグナーの音楽は凄まじい。翌年の「タンホイザー」上演を観て、彼はまた次のように賞賛する。

《タンホイザー》は人間の心のなかで繰り広げられる、肉体と精神、地獄と天国、悪魔と神という2つの原理の闘いを表わしている。この二元性は初っぱなから序曲のなかで実に巧みに表現されている。もうこの曲についてはすべてのことが書かれてしまったのではないのか。それでもなお今後たくさんのことが言われ、いろいろと論評されるであろう。なぜなら真の芸術作品は人を刺激してやまないという特性を持っているからである。つまりこの序曲はこのドラマの思想を、宗教的な歌と肉欲を謳歌する歌という2つに要約して示しているのである。この2つは、リストの表現を借りれば、「ここで2人の巨人にように立ち現われ、終幕で合一される」のである。
(シャルル・ボードレール「リヒャルト・ワーグナーとパリでの《タンホイザー》」1861年)
~同上書P262

ワーグナーが理想としていた世界の顕現たるオペラを正しく捉えるボードレールの慧眼。クリュイタンスの棒は、閃きに満ち、確かに終幕で聖俗が合一する。
1年で気のエネルギーが最も高くなる端午節の日に。

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