チェリビダッケ指揮シュトゥットガルト放送響 ブラームス 交響曲第1番(1976.10.21Live)

音響効果は形態を作る要素の一つですからね。ですから、レコードというのは音楽を破壊します。録音されたのとは全く異なる音響効果のところで聴かれるのですからね。どういう音響効果かというのは我々にとって決定的な意味を持ちます。テンポにしても効果がそのまま現れていて、その意味で、生きているのです。ベルリンからロンドンにそのまま持っていけるようなテンポは一つもありません。
(1985年11月、クラウス・ラングとのインタビューから)
クラウス・ラング著/齋藤純一郎/カールステン・井口俊子訳「チェリビダッケとフルトヴェングラー」(音楽之友社)P345-346

チェリビダッケの言い分は実に正しい。彼がレコーディングというものに懐疑的で、ほとんどレコードを残さなかった理由は明白だが、しかし、今となっては残された幾種もの録音を享受して思うのは、たとえ音の缶詰だとしても、彼の芸術の、彼の言いたいことのほとんどを、想像力を働かせなければならないにせよ、十分感動的だということだ。

私は何の準備もしません。つまり、学生時代に身につけたことですが、状況を判断するのです。時が経つにつれ、全てをさらに深く掘り下げ、異なる状況に対応する相関能力を身につけました。今ではどんな瞬間でも、自分が何処にいて、何処から来たか、そして何処に行こうとしているのかを感じることができます。
~同上書P341-342

果たしてそれは本当だろうか。彼はどんなときも十分なリハーサル時間を要求したはずだが。ただし、臨機応変に、そのときの空気を読みながら音楽を創造したのであろうことは想像がつく。ほとんど禅問答のようなインタビューがこの後も続くが、チェリビダッケの思考は微動だにしない(彼の音楽をしてはなおさらだ)。

・ブラームス:交響曲第1番ハ短調作品68
セルジュ・チェリビダッケ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団(1976.10.21Live)

マンハイムはモーツァルトザールでのライヴ録音。
オーケストラとの決別を前にして繰り広げられる絶対的名演奏と言っても過言ではない。これほど精緻で、かつ整備された、しかし、多少の恣意性をもった(少なくとも録音ではそのように聴こえる)ブラームスを僕は他に聴いたことがない。さぞかし実演を聴いたなら、卒倒しそうな勢いなのだが。例えば終楽章の激性よ。チェリビダッケが吼え、唸り、音楽は血沸き、肉躍る最初から最後まで血が出るような有機性を保持する。それに何よりおそらく聴衆が水を打ったような静けさでチェリビダッケとオーケストラに対峙しているであろう情景が目に浮かぶのだから凄い。

1977年2月14日、『シュトゥットガルト新聞』は「チェリビダッケとの別離」という見出しで別れの曲を奏でる。偉大なる気むずかし屋の過去2回にわたる公演を244行に印刷。「拍手喝采はふだんにも増して熱気にあふれ、花束が指揮台に届けられた」。「チェリビダッケはいまだかつて金科玉条的なお定まり演奏などやったことがない。いままでそうやってきたのだからそうあるべきだ的な、無思慮な安易さには目もくれない」。「彼のコンサートは彼自身にとっても、音楽家そして聴衆にとっても探検の旅」。そして、おずおずと最後に尋ねる—「これから先はどうなるのか? シュトゥットガルトは大切なものを失い、その芸術は荒涼索漠たるものとなった」。
クラウス・ウムバッハ/齋藤純一郎/カールステン・井口俊子訳「異端のマエストロ チェリビダッケ—伝記的ルポルタージュ」(音楽之友社)P223

緊張感あふれる絶対的ブラームスに僕は降参だ。

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