フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル ブラームス 交響曲第3番(1949.12.18Live)

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーには、どうやら本性、真我をとらえようとする意志が強く働いていたように感じられる。少なくとも彼は、音楽をするとき、いつもいわば忘我の境地にあった。

円弧が横断され、素材が素材として使い果たされるということを承認するのは、現代人にとって困難である。いかなる素材も、それがまさに素材であるから、またそれが素材であるかぎり、いつかは使い果たされざるをえないことが明白であるにもかかわらず、絶えず目覚めている精神にとっては、未来に一つの終止点を認めることが矛盾だと感じられる。だからといって、悲観的になる必要はない。なぜなら、一事に関して精神はどこまでも正しい。すなわち精神的なものには終止点がなく、枯渇ということがないのである。
(1949年)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P63

六祖壇経の「本来無一物、無尽蔵」という言葉を自ずと思い出す。
文字通りそのことを音楽に託そうとしたフルトヴェングラーの演奏は、嵐の如く動的でありながら、芯の部分では一貫した静けさを保つ。それゆえに普遍的であり、人々に感動をもたらすのだ。

ブラームス:
・交響曲第3番ヘ長調作品90(1949.12.18Live)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
・ハイドンの主題による変奏曲作品56a(1949.3.30&4.2録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

40余年前、初めて耳にした僕は、ブラームスの音楽のあまりの激しさに身震いした。音楽的にはそもそもこれほど劇的な要素は不要なのかもしれない。しかし、上記のフルトヴェングラー自身の言葉を体現するかのように、正しい精神を全うし、枯渇することのない熱を帯びて、音楽そのものが再生されているという意味で、これは奇蹟の演奏であり、人類の至宝たる記録だと言っても言い過ぎではないだろう。第1楽章アレグロ・コン・ブリオから暗澹たる情熱が渦巻く世界。第2楽章アンダンテは、窮屈な箱に閉じ込められ、抑圧されながら解放を待つ人間の本性の顕現。そして、第3楽章ポコ・アレグレットの浪漫は、現世の儚い夢の投影だ。時間を経て、いよいよ音楽はもっと現実的なものに様変わりして行く。終楽章アレグロ—ウン・ポコ・ソステヌートでのフルトヴェングラーは、何かに憑かれたように音楽に没入し、突進する。これは20世紀的闘争を自身の内側に投影する鏡であり、ティンパニの強打、弦楽器の激しいうねりなど、人間業を超えた尋常ならざるものだ。
僕は、テンポの伸縮と音の漸強漸弱の巧みさに舌を巻く(特に終結部に漂う安寧!)。天晴。

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