ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル ベートーヴェン 交響曲第4番(1973.4.29Live)ほか

オットー・クレンペラーはもちろんのこと(ザンデルリンクも)、フルトヴェングラーなどとは対極に位置するベートーヴェン。鋼鉄の意志で一気呵成に進むという印象は、たぶん一種の先入観だったのだろうと思う。音楽は、もちろん意志的だが、単にテンポの速いというものではないことが一聴わかる。
録音で耳にする僕たちにも伝わる、オーケストラの圧倒的音圧。深い呼吸と適切な間。
それは、彼のどの演奏にも通ずる特長だが、それにしてもこのレコーディングは特別に音が良い。流麗かつ鷹揚な第2楽章アダージョに詰まる思念、というか感情の渦に、普段冷徹な印象のムラヴィンスキーが、ここぞとばかりに魂までをも刻み込むような勢いを思う。

軽快な、小さな交響曲とはやはり言えまい。
交響曲第5番や第6番「田園」につながる悠揚たる、そして晴れやかな大交響曲。

・ベートーヴェン:交響曲第4番変ロ長調作品60(1973.4.29Live)
・グリンカ:歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲(1973.5.3録音)
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

伝説の初来日公演直前の、レニングラード・フィルハーモニー大ホールでの神々しき実況録音。何という新鮮な音楽。そして、ベートーヴェンの書き上げた音楽が、まるで素っ裸にされるかのように心の、精神の内側までが表面化するのである。何より終楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポの壮絶さ。同時に重み。もはや言葉にし難い感動が押し寄せる(終演後の聴衆の拍手は拍子抜けしたように静かな印象だが、誰もが啞然としている姿が想像できるというもの)。

ところで、交響曲第4番変ロ長調は、2管だが、フルートだけが1本という小さな編成である点が興味深い。その事情について大崎滋生氏が考察されており、面白い。

それは、献呈先であるオッパースドルフ伯のオーケストラが念頭に置かれていたという事実であり、シレジアにあるそのオーケストラ編成がフルート1本だったということのようだ。

同宮廷楽団の編成表が残存していなくても、ベートーヴェンが選択した楽器編成がそれを物語っている。逆に言うと、少なくともこの時点においては、彼は実に委嘱者を尊重し、その演奏可能力を十分に考えて作曲したのであった。
大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P628

音楽家ベートーヴェンが、あくまでパトロンあっての自分であることを意識し、謙虚に(それこそ徳積みだけのために)生きようとしていたであろうことがこういう点からも推測できるのだ。

それにしても十八番の(セッション録音である)グリンカの当然の精緻な猛烈さ。弦楽器の相変わらずの美しさが光る。

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5 COMMENTS

桜成 裕子

おじゃまします。大崎滋生氏の「ベートーヴェン像再構築」をおかげさまで興味深く読ませていただいています。この中の交響曲4番の成立と経過について書かれた部分によると、「ベートーヴェンはオッパースドルフ伯に依頼された4番を伯の所有するオーケストラに合わせてフルート一本の編成で作曲したが、破格の条件でロプコヴィッツ候がそれを試演するという誘惑によろめき、半年専有権を候に与えてしまった。それゆえ委嘱者であるオッパースドルフ伯に楽譜を渡すことが出来なかった。お金ももらっていたため、ベートーヴェンはつじつまを合わせるために、準備ができつつあった交響曲5番を進呈することを提案し、候から前金をもらったが、格別の創作パワーが禍い(?)して、オ伯のオーケストラでは演奏不可能な規模のフィナーレとなり、それは突き返された(らしい)。依頼者への慮りと無配慮の落差は、対人関係に見せるベートーヴェンの日常とも類似している。結局オッパースドルフ伯に報いることが出来たのは、楽譜出版の際、被献呈者として表紙に名前が表記されたということのみであった。そのためこの献呈は、「作品の献呈行為」の大原則、すなわち「報酬は、実際に行われた浄書譜の献呈や期限付き占有権に対するものであって、出版楽譜のタイトルに示された作品献呈に対するものではない」から逸脱する唯一の例となった。」とのことなので、「あくまでパトロンあっての自分であることを意識し、謙虚に生きようとしていた」人間像とは少し違うのではないでしょうか。今までのいろいろな伝記に書かれていたように、「自分あっての貴族、貴族は生まれながらに貴族だが、自分は才能と努力でベートーヴェンになったのだ」という自負が顔を覗かせているように思えるのですが・・・

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

こんにちは、確かにご指摘の通りだと思います。
やはり人間ですから、窮地に追いやられたときについ保身など「我(エゴ)」は顔を出すでしょう。
しかし、大崎氏の論についても大いなる研究成果とはいえ、事実ではありません。
というのもベートーヴェンの内側の心理状態や動機までは明らかにできないからです。
あくまでの僕の推論というか、希望的観測も十分にありながらですが、例えば、藤田俊之氏の「ベートーヴェンが読んだ本」などを読むにつけ、ベートーヴェンの心底にあった「真の動機」の大きさに真実を見、そこには世界の精神的統一はもちろん、本当の意味での人類の平和を望み、そのために芸術を通して尽くそうとした姿勢は間違いなく本物だと直観するのです。
ちなみに、世間でいわれる一般的なベートーヴェン像は、ゲーテの言葉などに由来するものですが、それは耳の疾患から生じたコミュニケーション障害によるものだということは明白で、もちろん彼が個性的で、凡人のとる行動とは一線を画していただろうことは間違いないにせよ、彼の創造した音楽を具に傾聴してみれば、言葉通り「徳を重んじる」、そして「真の動機こそを重視する」謙虚な人だっただろうと思います。

まぁ、僕が断定的に書いてしまっていることが誤解を生み種なのですが、僕は単なる好事家ですので言いたいことをただ言い放って一人悦に入っているというくらいに見ていただき、お許しいただければありがたいと存じます。
引き続きよろしくお願いします。

PS
ところで、大崎氏の論の中に次のような一説があることも追加しておきます。

主文においてたいへん興味深いのは、ベートーヴェンが年金の支給を「新しい大作品」制作に向かう環境を調えるためと意識していることと、そのお陰で大作を生むことができたとすれば、支給者たちは「共同制作者(Miturheber)」と言っても過言ではない、という認識を持っていたことである。
「ベートーヴェン像再構築2」P728

当然戦略的要素もありますが、それにしても彼の心底にある謙虚さが滲み出ているようにも僕は思います。

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桜成 裕子

岡本 浩和 様

 身に余るお返事、ありがとうございます。
岡本様の寛大さと懐の深さに甘え、浅学浅慮も顧みず御ブログにしゃしゃり出てご迷惑をおかけしておることと、恐縮しています。御ブログに出会わなかったら、横着者ゆえ、いつか聴こうと思っていたもの、いつか読もうと思っていた本、いつか調べようと思っていたこと等を一生実行せずに終えていただろう、と思われます。御ブログにコメントしたい、ということがモティベーションになり、楽しく音楽の事々を体験できることに感謝しています。私こそ好き勝手なことを書かせていただいているので、目に余る時は無視してくださり、どうぞご放念ください。
さて、ベートーヴェンが「徳を重んじる」、そして「真の動機こそを重視する」謙虚な人であったこと、全く同感です。ご紹介くださった大崎氏の「ベートーヴェン像再構築2」P728の文、本当にその通りだと思います。どこの宮廷にも仕えなかったベートーヴェンにとって、神命とも言える自己の芸術を追求するためのお金を拠出してくれる貴族たちは、同志のような存在にも思われたと思います。ベートーヴェンが貴族からお金を得るために作曲したのではないと信じる所以です。
当時、ベートーヴェンの曲を演奏して楽しみ、さらなる創作を望み、それを支えた貴族たちがいてくれて本当によかったです。ありがとうございました。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

こちらこそいつもありがとうございます。
それこそ僕が考えもしない視点でコメントをいただくことで、僕自身もいつも勉強させていただいています。
特に、桜成さんのように、ベートーヴェンに熱い、ベートーヴェン命という方に、オンライン上とはいえ出逢えたことは本当に良かったです。
引き続きどんなことでも結構ですので、お気づきや感想、あるいは突っ込みをいただければ幸いです。
昨今はブログの衰退が激しい世の中ですが、こういうやり取り、対話こそがブログの楽しみ、面白みの一つだと思いますので。

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桜成 裕子

岡本 浩和 様

 ありがとうございます。「ベートーヴェン命」はちょっと口幅ったく、ベートーヴェンもありがた迷惑かもしれませんが、他のどこにも表明できないベートーヴェン愛を受け入れてくださり、応えてくださる本ブログと岡本様には感謝をし尽くせません。ブログに投稿するなど私の人生で初めてのことで、変なことを書いて、他のみなさんが引いておられるのでは?と心配するのですが、岡本様がそう言ってくださってたいへんうれしいです。ありがとうございます。

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