ヴァント指揮ケルン放送響 ブルックナー 交響曲第6番(原典版)(1976.8録音)

アントン・ブルックナー生誕200年の年。
ブルックナーにあって、ある意味最も革新的な交響曲なのではなかろうか。
長過ぎず、短過ぎず、古典の枠を遵守し、いわゆる「ブルックナー休止」は影を潜め、それまでの彼の方法にはないくらい斬新だといえる。

その後ほとんど改訂の手が加えられず、複数の版が存在しない点で、まさに例外的なブルックナー交響曲である。
田代櫂「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」(春秋社)P194

ただしそれは、最初から完成形だったというわけではなさそうだ。

その後この作品は、ほとんど世の注目を集めなかった。この曲が煩雑な改訂をまぬがれたのは、そのためでもある。番号付きのブルックナー交響曲のうち、未完の『第九番』を除けば、『第六番』は作曲家の生前に出版されなかった唯一の作品でもある。全曲初演はブルックナーの死後、マーラーがかなりのカットを加えてようやく実現した。
~同上書P195

あくまで注目されなかったがゆえの産物という意味で、不幸といえば不幸だが、幸いといえば幸いな作品だ。ちなみに、今の僕は特にこの曲を愛好する。特に、ギュンター・ヴァントがケルン放送響と録音した演奏が美しい。白眉は大自然の讃美たる第2楽章アダージョにあろうが、弾ける明朗な第1楽章マエストーソも素晴らしい。

・ブルックナー:交響曲第6番イ長調(原典版)(1879-81)
ギュンター・ヴァント指揮ケルン放送交響楽団(1976.8録音)

今や繰り返し愛聴するアダージョの自然体。
そして、第5交響曲の主題が木魂するトリオを持つ第3楽章スケルツォの森厳な慟哭の機微。

おお、聖なる単純! 何という奇妙な単純化と欺瞞のうちに人間は生きていることか! ひとたび不可思議に眼をつけた者なら、驚嘆の措くあたわざるものがあろう! 何とわれわれはわが身の周りの一切を明るく、自由に、軽やかに、単純にこしらえあげたことか! 何とわれわれはわれわれの官能には、浅薄なもの一切にたいする無料入場券を、われわれの思考には気紛れな飛躍と誤謬推論への神々しい貪欲を与えてしまったことか! —何とわれわれは初めからわれわれの無知を保持するすべを心得ていたことか! それも不可解なまでの自由、無思慮、無分別、無鉄砲、生の明朗を、要すれば生そのものを享楽しようとしてのことだ! 無知というこの堅固になった花崗岩的な基盤の上にはじめて、学問はこれまで自らを築きあげることができた、つまり、よりはるかに強靭な意志、無知・不確実・虚偽への意志を基盤として、知への意志が築き上げられえたのだ! それも無知への意志の反対物としてではなく、むしろ—それの洗練としてなのだ!
信太正三訳「ニーチェ全集11 善悪の彼岸・道徳の系譜」(ちくま学芸文庫)P55

愚かな人間業を超えようとニーチェは苦悩する。否、気炎を上げて知を放下せよというのであろう(自分自身は到底できなかったのだけれど)。
アントン・ブルックナーは交響曲の作曲という範疇で生涯それを試みた。余分なものを捨て去ろうと試みた、その最たる例が第6番イ長調だ。そしてその後、彼の音楽は見事に昇華され、トルソーたる第9番ニ短調に至ってついに神への贈物と化した。

ブルックナーの音楽は常に進化、深化を続けたが、結果的に改訂の機会がなかった第6番イ長調こそ最高のターニング・ポイントなのだろうと思う。すべてが実に美しい。


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