フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル J.S.バッハ 管弦楽組曲第3番(1948.10.22Live)ほか

バロック音楽、あるいは古典音楽の時代がかった再生に秘められる20世紀的荘厳さ。単なる「浪漫」を追うのでなく、しかし、思いの丈情感を込め、音楽に没入する様は、その時代の常套だった。中でも、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの方法は、古臭いと言えばそれまでだが、別の視点でとらえたとき、今となっては逆に新鮮だ。

今朝、リヒャルトは音楽家向きの箴言を思いついた。「いつも冷たいバッハを飲みたまえ。だがグルックになりすぎれば、たちまちヘンデル」。
(1872年1月3日水曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P75

ドイツ語を解さない日本人には何のことやら、という言葉だが、この言葉には以下のような意味が隠されているという訳者の註。

「バッハBach」は普通名詞としては小川、「グルックGluck」は「幸福Glück」に通じ、また「ヘンデルHändel」はいさかいを意味する。前日ビールを飲みすぎて癇癪を起したことへの反省を込めた戯れ句。
~同上書P77

何にせよバッハ、ヘンデル、グルックは、ワーグナーにおいても別格の巨匠だったことがわかる。大仰なフルトヴェングラーの、バッハ、ヘンデル、そしてグルック。パッションがほとばしる。

・ヨハン・セバスティアン・バッハ:管弦楽組曲第3番ニ長調BWV1068(1948.10.22Live)
・ヘンデル:合奏協奏曲ニ長調作品6-5(1954.4.27Live)
・ヘンデル:合奏協奏曲ニ短調作品6-10(1950.6.20Live)
・グルック:歌劇「アルチェステ」序曲(1951.9.5Live)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

楽壇に復帰後間もなくの演奏だからか、バッハの管弦楽組曲においては指揮者の喜びとオーケストラの本気、本領が掛け合わされ、実に前向きな、壮麗な音楽が響く。ヘンデルの合奏協奏曲2曲も、楽章入れ替えなどフルトヴェングラーならではの方法が取り入れられ、音楽は時に溌溂と、時に悲劇性を湛え、見事なコントラストをもって奏でられるのだ。
しかし、白眉は、何と言ってもグルックの「アルチェステ」序曲(フルトヴェングラーの十八番)。悲哀と慟哭と、重みのある動的音調に、最後は慈愛溢れる喜びで閉じられる音楽に、指揮者の天才を思う。

音楽の正しい聴き方には二種のものが必要である。音楽性(素質)、そして偉大な作品から流れ出る情熱と生の温かみとをあますところなく感知し、受け入れるために充分な、有機的な生命力である。一方だけで他方が欠ければ物足りない。しかし両者を兼ねあわせることは稀である。
(1948年)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P60

厳しい言葉である。
人間らしくあること、すなわち慈悲の心を常に持つことがやっぱり重要だ。ただし、持って生まれた音楽的素質についてはいかんともし難い。

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