クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管 ベートーヴェン 交響曲第2番&第6番「田園」(1970.6.9Live)(Blu-ray Disc)

満身創痍の巨体から放たれる信じ難いオーラとでもいうのか、自分の意志で自由に歩くことさえできないであろう巨匠が、音楽の流れに応じて、腕を動かし、時折鋭い眼光(?)をもってオーケストラ奏者に指示を出し、フォルテの箇所では大ぶりな身振りを使ってベートーヴェンの魂を表現する様に、確かに僕はベートーヴェンが乗り移っていてもおかしくないと思った。

私たちがベートーヴェンの交響曲を録音していたとき、第2ヴァイオリンの首席奏者デイヴィッド・ワイズが「まるでベートーヴェン本人が指揮しているみたいだ」と言った。彼が一言二言、発言すると、団員たちは即座に反応した。「田園交響曲」を録音し始めたとき、数小節やったあと、演奏を止め「弱音で演奏しよう」と言った―そしてすぐに全体のサウンドと演奏の質が一変した。
(ジョン・トランスキー/川嶋文丸訳)
KKC 9476 89 9046ライナーノーツ

オットー・クレンペラーは、極端な躁鬱病に悩まされたという。彼の演奏は、一たびはまれば、途轍もない感動を聴衆に与えた。最晩年のベートーヴェン・ツィクルスのどの曲にも驚異のエネルギーとパワーが刻まれ、大指揮者の存在がどれほどオーケストラの機能と表現に大きな影響を及ぼすものであったかがよくわかる。ただし、一般のイメージとは異なり、クレンペラーは単なる独裁者ではなかった。

このオーケストラは私の喜びそのものだ・・・オーケストラは飛躍的に進化した。5年前の時点ですでにかなり良いオーケストラだったが、まだ発展途上だった。新しい人たちがたくさん加入した。彼らはみなとても優秀だ―そして私の言うことをよく聞いてくれる。だから私も彼らの言うことをよく聞く。
(1960年、BBCのテレビ・インタビューでの言葉)
~同上ライナーノーツ

相互信頼の鑑たる指揮者とオーケストラの関係。
その言葉通りの奇蹟の演奏が、人生の最後に繰り広げられる。

ベートーヴェン:交響曲全集
・交響曲第2番ニ長調作品36
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
オットー・クレンペラー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団(1970.6.9Live)

いずれの演奏も、微動さえしない強烈なもの。ちなみに、1961年の「ベートーヴェンについて」と題する小論には次のようにある。

ベートーヴェンの主題は肝心なものではない。肝心なのは、それがいかに広がっていくかということ、つまり、その展開にある。実際のところ、ヨーゼフ・ヨアヒムが言ったように、それはどのように展開されるか(Durchführungen)ではなく、どのように“それを通じて感じられるか”(Durchfühlungen)という問題なのだ。

「Von Herzen – möge es zu Herzen gehen」。ベートーヴェンは彼の「ミサ・ソレムニス」の冒頭にこう書いた。この美しい言葉―「心より出で、願わくは再び心に至らんことを」—は彼の全作品にあてはまるだろう。
~同上ライナーノーツ

大いに納得。
それにしても、「田園」交響曲終楽章コーダの天にも昇るクライマックスの官能と祈りの効果はいかばかりか。ステージ奥の席に陣取り、身を乗り出すようにして音楽を聴く、そして、クレンペラーの指揮の一挙手一投足を見逃すまいと集中する聴衆の姿が微笑ましい。

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