亡くなる当日のドストエフスキー。
彼は自分で聖書をひらき、わたしに読んでほしいと言った。
開かれたのは、マタイ伝第3章の第2ページだった。「ヨハネいなみて言ひけるは、我は汝より洗を受くべき者なるに、汝かへつて我に来たるか。イエス答へけるは、とどむるなかれ、かく大いなるただしきことは我ら尽すべきなり」
「聞いたろう、おまえ。『とどむるところなかれ』—つまり、死ぬということだ」と夫は言って、本を閉じた。
~アンナ・ドストエフスカヤ/松下裕訳「回想のドストエフスキー2」(みすず書房)P215
死期を悟るのも、そしてそのメッセージを受け取るのも、本来おおいなる信仰あってのものだ。
目にしたのは、歓喜いや増す愛の、しかも穏やかな、充たされた、瞑想的な法悦だった。彼らは死後もなお死者と接触を保っていて、地上でのその結びつきは死によっても絶たれないのでは、と思われた。永遠の生命について問いただしても、彼らにはそれが何のことかわからないようだった。永遠の生命を無意識に、というか本能的に堅く信じていて、そんなことは問題にもならないのだ。彼らは、神殿こそ持たなかったけれど、宇宙の〈全一者〉との、生きた、間断なき一致和合があって、それが日々必要欠くべからざるものとなっていた。信仰というのはなかったが、そのかわり、彼らには確固たる知識があった。つまり、彼らの地上の歓びが自然界の隅々まで充たされたとき、宇宙の〈全一者〉との交わりが彼らのために、生者たると死者たるとを問わず、さらにいっそう拡大されるようになることを、よくよく承知していたのである。
~ドストエフスキー作/太田正一訳「おかしな人間の夢」(論創社)P70-71
壮大な短編の、マクロコスモスとミクロコスモスの一体を暗示するドストエフスキーの言葉だが、実際のところは「信仰」に優るものはないにもかかわらず、ここでドストエフスキーはあえて「知識」ということばを持ち出している点が興味深い。
『おかしな男の夢』は、テーマ面から言えば、ドストエフスキーの主要テーマのほとんど完璧な百科事典であるが、と同時にそうしたテーマのすべて、およびそうしたテーマを芸術的に仕上げてゆく手法そのものは、メニッペアというカーニバル化されたジャンルにとっても非常に特徴的なものである。ここでしばし、そうしたテーマのいくつかを検討してみることにしよう。
① 『おかしな男の夢』の主人公像にはっきりと感じ取ることのできるのは、カーニバル化された文学固有の《賢い馬鹿》《悲劇的道化》という両義的な—真面目な笑話の—形象である。しかしそうした両義性というのは、確かにたいていはもっと抑制された形でではあるが、ドストエフスキーの主人公全員に特有のものである。ドストエフスキーの芸術的思考には、何らかの変人性(様々なバリエーションがあるが)を抜きにしては、如何なる人間的価値も思い浮かばなかったのだと言ってもよい。
~ミハイル・バフチン/望月哲男・鈴木淳一訳「ドストエフスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)P300-301
常に矛盾をはらむ主人公の原型は、おそらく「聖愚者」というものであろうが、同じロシアで同時代に、その変人性を体現した風変わりで、革新的な作曲家がいた。
モデスト・ムソルグスキーである。
狂人的な生活と、そこから創出される天才的な、そして聖なる音楽の宝庫に感嘆の念を禁じ得ない。
アバドの挑戦と革新性は未来を志向する。1世紀以上を経て、ムソルグスキーの真意がようやく理解されるようになったであろうことを察知してアバドは満を持して「原典」を採り上げる。作曲家の第一念の美しさ。狂人、あるいは馬鹿のふりをした賢者の最右翼こそムソルグスキーその人ではあるまいか。
声楽付きの「禿山」原典の崇高さは、荒々しさの中に、赤裸々な心情告白の中に音楽の真意を見出す鍵だ。ドストエフスキーが「信仰」を差し置いて「知識」の優位性を説こうとしたのは道化だ、洒落だ、ある種のポーズだ。そうやって巨匠は遊んだ、そして楽しんだ。まさに自ら変人を装って、真実を隠そうとしたのである。ムソルグスキーも同様。彼らの魂はわかっていた。しかし、時代が早過ぎたのだ。脱帽である。
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー、1881年2月9日、サンクトペテルブルクにて没。そして、モデスト・ペトロヴィチ・ムソルグスキー、1881年3月28日、同じくサンクトペテルブルクにて没。
ムソルグスキーは原典で聴かなきゃ・・・