
快速のテンポを保ちながら重戦車のような破壊力。
灼熱の音楽に触れると、すべてが木っ端微塵のように思われる。何というパワーとエネルギーなのだろうか。
特に若い頃は、この壮絶な演奏の価値がまったくわからなかった。たった1回きり針を降ろしただけで棚の奥にしまわれてしまった可哀想な音盤。あれから40余年が経過する。
トスカニーニとの共演は、音楽的な再生だった。(中略)彼の力につかまったら、自分の冷淡さなどどこかへ行ってしまった。みんな、ただの奏者や音楽家ではなく、再び、長く忘れていた理想や真実を追い求める芸術家となっていた。みんな、好奇心に満ちて生き生きとし、自分が演奏する作品に意図や自己実現を感じた。それは仕事ではなく、天職だった。
(NBC交響楽団ヴァイオリン奏者サミュエル・アンテック)
~山田治生著「トスカニーニ―大指揮者の生涯とその時代」(アルファベータ)P226
オーケストラの団員をそこまで啓蒙してしまうトスカニーニの力量。
実際、モーツァルトの最後の3つの交響曲を聴くにつけ、音の密度の高さに驚かされる。ほとんどコンクリート・クラスターではないのかと思わせるほどの音塊が聴く者の心や魂に直接に響くのだからたまらない。何より第41番ハ長調K.551「ジュピター」終楽章モルト・アレグロの筆舌に尽くし難い生命力!!
極限の集中力に1回聴くだけでへとへとになる。
いかにもトスカニーニという残響のない、色気のない音がモーツァルトの音楽の内面を一層抉るのである。何という慟哭!
第40番ト短調K.550から滲み出るカンタービレは、トスカニーニの心そのもの。第1楽章アレグロ・モルト提示部をきっちり反復し、当時のモーツァルトの心のうちを(それは貧困からの脱却を願う反骨心か?)はっきりと示さんとする。何といっても終楽章アレグロ・アッサイの疾走が激しく、また哀しい。白眉は、やっぱり第41番ハ長調K.551「ジュピター」だろう。第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェから音楽は真に迫る。そして、おそらく翌年録り直しをしたであろう第2楽章アンダンテ・カンタービレの文字通り壮絶な「歌」!!
[…] 一昨日、トスカニーニのモーツァルトを久しぶりに聴いて、僕は次のように書いた。 […]