内田光子 ザンデルリンク指揮バイエルン放送響 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第5番「皇帝」ほか(1998.11録音)

終楽章ロンド(アレグロ)の弾けるピアノが歓喜の真の表現のように僕には思える。
クルト・ザンデルリンクの棒の下、内田光子は自由闊達にベートーヴェンを奏でる。
ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」は稀代の名演奏。

マンはドイツの芸術性と地中海的・ラテン的芸術性を対比して次のように言っている。
「私は二十歳のころ地中海海岸の異国で一カ年を過したことがあるが、ドイツに帰ったとき最も郷土的なもの・最もドイツ的なものと感じたのは、ドイツの劇場演戯を支配している文化的規律であった。—かの地でかような催し物に刻印をおしているあの社会的くつろぎと、これは対照をなしている。ドイツの劇場はその奥底で、文化思想と結ばれ、礼拝的共同体と結ばれている。それはこの世界からメタフィジックな品位に入り、社会的に条件づけられぬ絶対性に入り、精神的な威厳に入る。かような威厳はドイツ劇場の創造者・詩人らがこれに刻印したものであり、西方および南方のデモクラティックな社会劇場のたえて知らぬものである。後者は演壇である、新聞である、討論の会場である、社会的事項を分析し演戯によりこれを説明するための道具である。しかるに前者は、そのイデーの性質から言えば神殿である。観衆はどうかというに、これまた超経験的なイデーにおいて、またその演劇の巨匠らの志向に従って、民族(フォルク)である。しかるに文明の劇場の観衆は社会的集団である。そして最も高い最も荘重な場合でも国民(ナツィオーン)である。」(『文化と社会主義』)

辻邦生「トーマス・マン」(岩波書店)P154-155

リヒャルト・ワーグナーに代表される(?)ドイツ精神の高揚、ドイツ芸術の絶対性を盾にその至宝の純粋性を対比して語るマンの言葉は、そのままベートーヴェンの芸術にも当てはまりそうだ。内田のベートーヴェンを支えたのは、間違いなくザンデルリンクの棒による管弦楽の響きだろう。安定の第1楽章アレグロと、安寧を生み出す第2楽章アダージョ・ウン・ポコ・モッソに、マンの言う「文化的規律」を感じるのは僕だけだろうか。

ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」
・創作主題による32の変奏曲ハ短調WoO80
内田光子(ピアノ)
クルト・ザンデルリンク指揮バイエルン放送交響楽団(1998.11録音)

ミュンヘンはヘラクレスザール。録音からあっという間に四半世紀。
いぶし銀の音響は今も決して色褪せない。何という厚み、何という精神性。
第1楽章アレグロ、管弦楽によるトゥッティの冒頭から別次元。すぐさま内田のカデンツァに移行するも、途切れぬフレーズの音楽的創造の粋に一気に魅せられる。ベートーヴェンは何と素晴らしい音楽を創造したのだろう。内田光子は流れに委ね、あくまで老指揮者の解釈に同調せんと自我を排しているようだ。淡々と流れゆく音楽も楽章が進むにつれ熱を帯びる(あくまで中庸に)。

なぜなら、あらゆるものは絶対的な命令として現われてくるとき、それはつねに専制となり暴力と等しいものになる。あらゆる絶対的な真理もその絶対性を振りかざしたとき、すでにその背理を示している。これは同じドイツ的な生の根源的衝動から鬼子として生まれた「血と大地」のナチズムの理論をマンのデモクラシー擁護と較べてみると、よくわかる。
~同上書P225-226

どんな真理もそこに固執したときに、そこに傾いたときにその力を喪失する。
いかに中庸であれるか。名演の条件とはそこにあるのだと僕は思う。

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