
芸術の創造にはある程度の抑圧が必要なんだろうと思う。
ソヴィエト時代のロストロポーヴィチの演奏は、ため込んだものが一気に噴き出すような爆発力、というか人間業とは思えない力とエネルギーに満ちている。技術的にも優れているのはもちろんだが、楽器を自らの手足のように自由自在に操る様子は、亡命以降の録音以上に群を抜くものだ。
ましてそれが、自身のために書かれた作品だとするならなおさら。
例えば、ショスタコーヴィチ。
レーニン賞受賞にはじまる一連の顕彰行事をこなしたショスタコーヴィチにとって1959年は、比較的穏やかな年明けとなった。この年の春から夏にかけて、ムソルグスキーのオペラ『ホヴァーンシチナ』の映画化にあたり新たなオーケストレーションを施した後、夏の約50日をかけてチェロ協奏曲第1番の作曲に没頭している。当時32歳の天才チェリスト、ロストロポーヴィチに献呈されたこの曲について、特筆しておきたい事情が一つある。それは彼がこの曲の作曲に取りかかる数カ月前、今は亡きプロコーフィエフが最晩年にチェロ協奏曲第1番を書き換え、交響的協奏曲(チェロとオーケストラのためのシンフォニア・コンチェルタンテ)を作りあげている事実に注目し、この曲こそが自分に創作意欲を搔き立ててくれる正体であると明かしていることだ。
~亀山郁夫「ショスタコーヴィチ 引き裂かれた栄光」(岩波書店)P375
亀山さんは、ショスタコーヴィチがプロコフィエフの何に触発されたのか、その秘密を明かしてくれている。プロコフィエフが作品の改作にあたり、スターリンを称えるロシアの創作民謡の旋律が第3楽章に付加されていたこと、そこにショスタコーヴィチは刺激を受け、自身も作品に引用を施したのだというのだ。

彼が書いたのはチェロ協奏曲第1番変ホ長調作品107であった。
また最終楽章の冒頭部でスターリンの愛唱歌『スリコ』が半音階ずつずれ落ちる形でグロテスクに展開されることに気づくものはなかった。初演者であるロストロポーヴィチも、グルジアの民謡が唐突に現れることに気づかなかった。リハーサルの途中、ショスタコーヴィチはロストロポーヴィチに「スラーヴァ、気づいたかい?」と尋ねた。そして笑いながら、「スリコ、スリコ、ぼくのスリコはどこに、だよ」と自ら答えたという。
~同上書P376
この時期にあってその引用がどれほどの意味があったのか、亀山さんはまた、もはやフルシチョフの時代であったことからパロディという以上の意味はなく、むしろ亡きプロコフィエフへの軽いユーモアであったのではないかと推論している。
ティンパニによる一撃のあと、チェロによる第2主題の提示の直前に、オーケストラによってDSCHの変形であるCBE♭Dが提示され、それが何度も繰り返される。しかもその延長線上に、ムソルグスキーの歌曲集『死の歌と踊り』の第1曲「子守唄」がたくみに引用される凝った仕掛けになっている。ムソルグスキーのこの曲は、明け方、瀕死の幼子のもとに死神が訪れ、母親のはげしい抵抗にもかかわらず、幼子の命が奪いとられていくという、恐ろしくペシミスティックな哀調に満ちた音楽だが、ショスタコーヴィチは、3年後、この音楽のオーケストレーションに携わり、なおかつ交響曲第12番のフィナーレでは、同じDSCHの音型を華麗にかついささか暴力的に使用することになった。
~同上書P377-378


亀山さんは「二枚舌は生きている」としたが、それこそショスタコーヴィチが鬱積の中に(無意識だろうが)あったことをうかがわせるものだ。
モスクワ音楽院大ホールでの実況録音。
初演者ロストロポーヴィチの演奏に感じられる温かみ。個人的には、この悲哀漂う、暗鬱な音楽に、チェリストのただならぬ愛情を思うのである。同時代の作曲家が感じていた苦悩を、同じくロストロポーヴィチも持っていて、同時にそこには共感があったのだろうと思われる。
それは、テクニックを超えた、肉薄する魂の告白であり、ユーモアでも二枚舌でもなく、ロストロポーヴィチの、真剣に自己に向き合った結果でもあるのだ。だからこそ内燃する激性と、そこから発せられる(反するようだが)得も言われぬ慈愛が浮き彫りにされるのだ。
