トスカニーニ指揮NBC響 ワルター指揮ニューヨーク・フィル フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル モーツァルト 交響曲第40番K.550

音楽を発見するために、私が国境のはずれまで出かけていく私の既知の国は言語である。さまざまな媒介を一定の発展過程として秩序づけようとすれば、どうしても言語と音楽とを直接に並べざるを得ない。だからこそ、音楽は一種の言語だともいわれているのだが、これは単なる機知的な意見以上のものである。
ゼーレン・キルケゴール/浅井真男訳「ドン・ジョヴァンニ 音楽的エロスについて」(白水ブックス)P45

キルケゴールは、「ドン・ジョヴァンニ」序論でそう書くが、これですらまだまだ誤解の域を出ていないだろう。

歴史的に評価された傑作は、実際のところ器が大きいのだと思う。
理想的な解釈など本来はない。理想ほど人の思念の刷り込みはなく、理想を否定するところから傑作のすべてが始まるのだと僕は思う。そして、そもそもこの記事たちもそうだが、音楽そのものを、演奏の実体を言葉で正確に描き切ることはできない(その意味では、ここにある記事のすべては幻であり、勝手な僕の思い込みなのだ)。

一昨日、トスカニーニのモーツァルトを久しぶりに聴いて、僕は次のように書いた。

第40番ト短調K.550から滲み出るカンタービレは、トスカニーニの心そのもの。第1楽章アレグロ・モルト提示部をきっちり反復し、当時のモーツァルトの心のうちを(それは貧困からの脱却を願う反骨心か?)はっきりと示さんとする。何といっても終楽章アレグロ・アッサイの疾走が激しく、また哀しい。

モーツァルト:
・交響曲第40番ト短調K.550(1938.3.7&1939.2.27録音)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団

極めて個人的な感慨であり、感想だ。そして、つい先日聴いたワルターの第40番ト短調についても然り。

不要なものをとことん削ぎ落し(強いて言うならモーツァルトの浪漫を残すのみか)、モーツァルトの真実の慟哭を音化する見事なト短調交響曲。第1楽章モルト・アレグロからどこをどう切り取ってもワルターの愛に包まれる。最美の第2楽章アンダンテに恋をし、空ろな第3楽章メヌエットに心弾け、そして、ついに終楽章アレグロ・アッサイで熱風の如き嵐に翻弄されるも、その中に埋もれ、喜びを感じずにおれない僕を発見するのだ。嗚呼。

若い頃から僕にとってワルターのモーツァルトは宝だった。初めて聴いたときから心震えた。しかし、一方、トスカニーニのそれは受け入れ難いものだった。それなのに今やどうだ。玉石混交、清濁併せ呑む、すべては人間の独断によるもので、価値観やセンスが変われば評価は変化する。世はまったく常ではない。

モーツァルト:
・交響曲第40番ト短調K.550(1953.2.23録音)
ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニック

ましてやフルトヴェングラーの第40番ト短調については、数年前、僕の評価はコロッと変わり、次のように書いている。

久しぶりに聴いたフルトヴェングラーのト短調交響曲(ブライトクランク盤)の印象は、これまでとまったく違った。第1楽章アレグロ・モルトは、思ったほどテンポは速くない。また、呼吸も決して浅くない。むしろ、そのほとばしるパッションに感銘を受け、何より提示部の主題反復の際のニュアンスの微妙な変化に感動する。そして、第2楽章アンダンテの安寧。フルトヴェングラーの指揮はあくまで脱力の自然体。第3楽章メヌエットも、とても舞曲とは思えぬ厳しい音色。さらに、終楽章アレグロ・アッサイの疾風は、すべてを切り刻む鋼の如し。

何とも言葉がない。

・モーツァルト:交響曲第40番ト短調K.550(1948.12.7&8録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

20世紀の三大巨匠と言われた天才たちによるモーツァルトの第40番ト短調K.550。この屈指の、人類の至宝たる交響曲が、いずれ優るとも劣らぬ方法で、それぞれが異なる個性を保ち、描かれる様に僕はモーツァルト作品の器の大きさをつくづく思う。不朽の傑作は、初めて聴いた日から40余年が過ぎようとも感動を与えてくれる。

何という美しさ。

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