
例によって「熱狂的」という(浅薄な)表現しか思い浮かばない歴史的名演奏。
灼熱地獄、否、天国と言っても言い過ぎではない、現代ではいなくなった独裁的解釈に、身も心も灼けて、溶けて、ボロボロになってしまう、危ない(?)録音。久しぶりに耳にして、やっぱり初めて聴いたときのあの居ても立ってもいられない感覚が蘇ってきた。
カーネギーホールでの交響曲第1番ハ短調作品68。第1楽章序奏ウン・ポコ・ソステヌートから速いテンポで、かつ密度の濃い音塊が押し寄せては引き、引いては押し寄せの繰り返し。息つく暇もなく音楽は主部アレグロを経て、安寧の第2楽章アンダンテ・ソステヌートに引き継がれる。夢見るような懐かしい音楽が、職人ブラームスの堅牢なイメージを横に追いやり、アルトゥーロ・トスカニーニの名刺代わりのように響く。この楽章は、僕が思うに慈悲深きトスカニーニの真骨頂。
そして、第3楽章ウン・ポコ・アレグレット・エ・グラツィオーソの軽快な(しかし求心力に富む)喜び、あるいは、終楽章アレグロ・ノン・トロッポ,マ・コン・ブリオの激しい、慟哭の悲劇よ。録音の古さを超え、現代にも通用する音楽に快哉を叫ぶ。すべてがあまりに素晴らしい。
トスカニーニの美しさは、アインザッツのぴったり揃った、揺るぎない、微動さえしない音の塊が、カンタービレをもって最高に美しく歌われる点にあると思う(計り知れない求心力と遠心力の掛け算)。大学祝典序曲ですら爽快なテンポで前進し、重みのある、唯一無二の作品として僕たちの目の前に現われるのだ。
一方、ハンガリー舞曲集からの、作曲者自身の編曲による第1番ト短調の、大曲を思わせる、音の波状攻撃に降参せざるを得ない。そして、ドヴォルザーク編曲による3曲は、何とたおやかで、優しく、心に染み入るのだろう。ここには、トスカニーニが交響曲第1番の第2楽章で魅せた、あの懐かしさを伴った、癒しの瞬間が頻発する。
76回目の終戦記念日に。