一般にオペラにとって序曲がどういう意味をもつかということは、ここで論述するのは不適当であるが、ただはっきり強調しておきたいのは、オペラが序曲を要求するという事情は抒情詩的なものの優勢を充分に立証するということ、また、序曲によって意図される効果はある気分を作り出すという点にあるということである。あとのことは、いっさいが透明でなくてはならない劇が実行しえないことである。こういう理由から、芸術家自身が充分に音楽にひたりきってからになるように、序曲が最後に作曲されるのは至当のことである。だから一般に序曲というものは、作曲家の内面を、また自分の音楽に対する彼の心的関係を、深く洞察するための機会を与えるのである。
~ゼーレン・キルケゴール/浅井真男訳「ドン・ジョヴァンニ 音楽的エロスについて」(白水ブックス)P157-158
「ドン・ジョヴァンニ」序曲が、モーツァルトの他のオペラの序曲に比して、途轍もない官能と、悪寒の走るほどの(?)戦慄を覚えさせるのは、キルケゴールの指摘する、まさにその点からだろうと僕は思う。中でも、古い録音ながらフルトヴェングラーの演奏したそれは、他を冠絶しており、他の誰のどの演奏を聴いても物足りなく感じるのだから凄い。70年近くを経ても傑出する「ドン・ジョヴァンニ」序曲の理想形。あくまで僕の個人的な感想なのだけれど。
むかしから称えられていた「ドン・ジョヴァンニ」序曲は完全な傑作であって、たとい「ドン・ジョヴァンニ」の古典性をほかに証明できないとしても、中心を所有する者が周辺をもたないなどということがいかに考えられないことかという一事を主張するだけで、充分の証明となるのである。この序曲は主題のごたまぜではなく、迷宮のような観念連合の編み合わせではなく、簡潔・明確・強烈に構成され、なかんずくオペラ全体の本質にあふれている。
~同上書P158-159
手放しの賞讃に僕はただただ膝を打つ。そして、キルケゴールは次のように続けるのだ。
それは神の思想のように力強く、世界の生のように活動し、厳粛なときには震撼を与え、歓楽のときにはおののきを与え、おそるべき怒りのときには破壊的であり、生を楽しむ喜びのときには感激を与え、罪の審きのときには陰鬱であり、いかめしい威厳を示すときには悠然として荘重であり、歓喜のときには動揺し、ひらめき、躍るようである。
~同上書P159
まさにこの言葉の体現こそがフルトヴェングラーの演奏であり、老巨匠の演奏が唯一無二である証左なのである。ライヴで残された彼の演奏はどれもが真に迫る。
音だけで聴いても、あるいは残された映像作品で見ても、陰陽のすべてを包括する、キルケゴールのいうすべてを含蓄するフルトヴェングラーの神々しさに僕は思わず跪きたくなるくらい。吉田秀和さんが亡くなったと聞いたときに聴いたのが最後だったが、久しぶりに耳にして(序曲だけだが)やっぱり感動した。
ちなみに、巻末の解説で岡田暁生さんが、興味深い論考を書かれていて、とても納得した。
「ドン・ジョヴァンニ論」が書かれたのはヴァーグナーの本格的な創作よりもかなり以前であるから、執筆時にキルケゴールがヴァーグナーの楽劇を知っていたはずはない。他方ヴァーグナーがキルケゴールを読んでいた形跡はないから、彼の楽劇がキルケゴールの著作に霊感を受けて成立したとも考えられない。彼らのあいだには具体的な影響関係はない。にもかかわらず両者の音楽劇(オペラ)観がきわめて似通っているとすれば、その公分母はやはりモーツァルト作品に求められねばならないだろう。もちろんモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」はライトモティーフを駆使した楽劇などではないが、人の無意識世界の闇に焦点を当てているという点で、最もヴァーグナー的なモーツァルト・オペラである(1851年にヴァーグナーは、チューリヒでこの作品を指揮している)。キルケゴールはそこに、ヴァーグナー楽劇を経由して19世紀末の心理劇、さらには20世紀の不条理劇に至る、リビドーのドラマとでもいうべきものの先取りを見出したのである。
~同上書P196-197
最もヴァーグナー的なモーツァルト・オペラという点でフルトヴェングラーの解釈は、極めて妥当であり、その意味で右に出る者はいない。
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