リヒテル モーツァルト ピアノ・ソナタ第8番K.310ほか(1989.3.29Live)

モーツァルトのうちでいちばんよく弾くのはイ短調のソナタだ。いつも楽しみながら弾くのだが、うまくいったためしがない。—一度もない! 魔法の曲だ。
ユーリー・ボリソフ/宮澤淳一訳「リヒテルは語る」(ちくま学芸文庫)P143

リヒテルはそう嘆く。しかし、晩年の彼の弾くイ短調のソナタは自由闊達で、魂が飛翔する素晴らしい演奏だ。

グールドの演奏を聴いたなら、彼と較べれば、自分はずいぶんなモーツァルティアンだという気がしてくるだろう。ぎこちない手の持ち主が、長いこと暗い地下室に幽閉されていたが、いきなり灼熱の太陽の下に解き放たれる。そんな演奏だ。
~同上書P145

リヒテルさえ驚愕させたグールドのモーツァルトは、リヒテル自身をモーツァルティアンたらしめた。ああいう奇天烈な演奏は、誰にも受け入れ難いものだと思うが、それゆえに普遍的なんだともいえまいか。年齢を重ねてたまに聴くグールドのモーツァルトは実に面白い。

君の絵が持ち込まれ、我が家で展覧会が行なわれた。みなプロの作品だが、いまひとつ独創性に欠けた。アントーノワ館長も、ニーナも、気に入らない。だが、私は一枚気に入ったよ。それを買いたいと思った。
何の絵かというと、モーツァルトだ。ランゲの有名な未完の絵で知られるような、あまり感じのよくないモーツァルトの絵でね。

~同上書P141

それはリヒテルの見たある日の夢だそうだ。実はこのモーツァルトは天使だったという。天子に相応しいハ長調のソナタがまた格別に可憐で美しい。

モーツァルト:
・ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調K.282
・ピアノ・ソナタ第15番ハ長調K.545
・ピアノ・ソナタ第8番イ短調K.310
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)(1989.3.29Live)

ロンドンはバービカン・センターでのライヴ録音。
リヒテルの音楽への集中力はもちろんのこと、モーツァルトへの溢れんばかりの愛で満たされた当日のホールのエネルギーたるやいかばかりだったであろう。初期の変ホ長調ソナタの愛らしさ。そして、何より(経済的困窮の中にあって書かれた小さな)ハ長調ソナタ第2楽章アンダンテに感じられる哀しみは、老境のリヒテルだからこそ成し得た光と闇を往来するモーツァルトの奇蹟の顕現だ。そして、十八番のイ短調ソナタ。第1楽章アレグロ・マエストーソの(デモーニッシュな側面が削がれた)柔らかさは、文字通り天使のモーツァルト! ただし、最高なるはやはり(一音一音丁寧に紡がれる)第2楽章アンダンテ・カンタービレ・コン・エスプレッシオーネの歌だろう!
すべてが絶品。感謝と音楽に心が満たされる。

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