
晩年のブルーノ・ワルターはルドルフ・シュタイナーの影響をたぶんに受けていたという。
ワルターの音楽には慈悲がある。思いやりの思念もあれば、悲観的な、あらゆる業をすべて受ける覚悟があるともいうべき「すべて」が刻印される。特に、祖国を離れ、米国に亡命後の、中でも戦後のニューヨーク・フィル時代の演奏には、かつて彼が保持していた柔和で典雅な感性のほかに、ある種強烈な、闘いのモードもいうべき「生きざま」が表出される瞬間が多々あり、実に興味深い。
「この暗い物質主義の時代において、それは老齢にある私を豊かにしてくれる、計り知れないほど貴重なものとなった。足元の土台が確固としたものとなったのだ。つまり、物質的なるものはすべて何らかの精神的なものの顕現であるということ―なぜなら、そこにこそ私は人智学の基本原理を認めたからである。」こうした教義は、彼が最も長く保持してきた信念に呼応するものだった。彼は既に1905年に、「現世のすべての現象は、この世では覆い隠された精神性が個別的に現れたものに過ぎない」と書いていた。彼は常に、物理的なもののことを精神的なものや形而上的なものの伝達手段と捕えており、常に「高次の世界を知ろう」と努めていた。生物をオーラが取り囲んでいるという人智学的概念ですら、ワルターの考え方にとって無縁なものではなかった。
~エリック・ライディング/レベッカ・ペチェフスキー/高橋宣也訳「ブルーノ・ワルター―音楽に楽園を見た人」(音楽之友社)P470
例えば、ブラームスの交響曲全集は、ニューヨーク・フィルの分厚い音響を糧に、ワルターは男性的な猛々しさを前面に押し出した演奏であり、いずれもが浪漫溢れる劇的な名演奏である。
興味深いのは、ハイドン変奏曲をはじめとする管弦楽曲の熾烈さ。音楽は縦横に伸縮し、ここぞとばかりにパッションを吐き出す姿勢は、慈悲深きワルターが燃えに燃えた瞬間を刻印しており、例えば、「悲劇的序曲」にも「大学祝典序曲」にもほとんどライヴではないのかと思わせる熱狂が潜む(ハンガリー舞曲ですらそうなのだから凄い)。
交響曲第1番ハ短調作品68は、第1楽章序奏ウン・ポコ・ソステヌート冒頭から爆演(終楽章は序奏から早めのテンポで、闘争心?丸出し)。モノラルの古い音ながら、指揮者のエネルギーが見事に音楽に転写され、僕たちを端から圧倒する。ちなみに、本全集の白眉は、交響曲第2番ニ長調作品73。ワルターの個性に相応しい、ブラームスが大自然の調和をテーマにしたような流麗な音楽が、それこそ自然体で再現される様子にまずは感無量。
また、交響曲第3番ヘ長調作品90は、激烈で雄渾の極み。ただ、交響曲第4番ホ短調作品98は、より透明感優れる後年のコロンビア交響楽団とのステレオ録音に軍配が上がる。
ワーグナーをとるかブラームスをとるかという問題、これは私が育ってきた、そして生きている環境からいって悩みの種になるはずであったが、私にとってはきわめて簡単であった。なぜなら、私はどちらを選んだわけでもなく、まさに両方を愛していたからである―一家言を持つ多くの人たちの意見が、はげしく二手に分かれて対立しているこの問題が、どうして私のなかで協調しうるのか、べつに解きあかしてみようとも思わなかった。賛否を表明することに対する無気力は、しばしば悲しむべき寛容の変種を生みだすものだが、私の場合はそうした過ちでないことはたしかだった。
~内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏—ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P61
ブルーノ・ワルターが真に慈しみに溢れた人であったことを示す言だと思う。ワルターのブラームスもワーグナーも素晴らしい。