
言葉と音楽の調和。
フランツ・シューベルトの後を継ぐロベルト・シューマンの奇蹟。
言葉は、人間の生みだした、想いや思考を伝える最良の道具だ。
一方、音楽は、人間の生みだした、感覚や感性を伝える最善の策だ。
かつて数世紀前の欧州では、どちらが有意かという論争が持ち上がった。おそらくそれは、今でも解決されない永遠のテーマだ。
夢とヴィジョンの世界でハイネの魂は夜啼鶯であり、美と愛情との朗々たる使者であるが、夢の世界を一歩出るとき、この巨大な鶯の声は急に破れて、幻滅や皮肉の調子が「歌」の中へ交り込む。甘美な歌に苦みが加わる。
~片山敏彦訳「ハイネ詩集」(新潮文庫)P3
片山敏彦氏の指摘は実に鋭い。単に甘美なだけでは芸術は普遍的にはなり得ない。
光の中に翳があり、愉悦の中に哀感が垣間見えるゆえに人々の心を打つのである。
樹翳をわれはさまよいぬ、
道づれはただ心の愁い。
そのかみの夢の姿ら
ひそやかに心に来る。
「樹翳をわれは」
~同上書P24
ハインリヒ・ハイネの「歌の本」から「樹翳をわれは」。
失恋の痛手を(?)癒さんとするのは誰にもできまいとハイネは自らに閉じこもる。この暗礁がどれほどロベルト・シューマンの共感を呼んだことだろう。
フロレスタンとオイゼビウスは、ロベルト・シューマン自身の内なる陰陽だ。
フィッシャー=ディースカウの悟性に委ねた、知的な歌は相変わらず素晴らしいのだが、一層美しいのはシューマンの翳なる部分を見事に表現したエッシェンバッハのピアノ。これは、伴奏というよりハイネの詩をより良く音楽に乗せるための、声と同等の機能を与えられたシューマンならでは魔法の一種のように思えてならない。作曲家の思考やセンス(フロレスタンとオイゼビウス)を正確に音化するピアニストの完璧なる技巧なんだと確信する。