
難聴に加え、彼には悪魔のようなデフォルメが知覚された。低音域は3度高く、高音域は3度低く感じられたのだ。
(次男フィリップ・フォーレ=フルミエによる伝記より)
音楽家として致命的となる難聴の中、老境のガブリエル・フォーレが心の耳で創造した音楽の激性は、僕たちの魂を刺激する。内なる哀感すら超越した、もはや純白といえるこの至純の世界は、同じく耳疾に悩んだ最晩年のベートーヴェンの孤高の世界にほぼ等しい。
ベートーヴェンが、リヒャルト・ワーグナーに与えた甚大なる影響。
そして、ワーグナーが欧州世界にオンタイム、あるいは後世に与えた影響。果たしてその中にフォーレもいるが、しかし、彼にあっては完全にワーグナーの毒を昇華し、独自の世界を築き上げている点が見事だ。
ちなみに、19世紀のフランス音楽に、ヴァーグナーの与えた影響は圧倒的だった。サン=サーンス、シャブリエ、メサジェ、ショーソン、デュパルク、ダンディとつぎつぎに崇拝者が現われた。ラロの歌劇《イスの王様》(1888)にいたってはまるでヴァーグナーばりの厚いオーケストラだし、初期のドビュッシーは、バイロイト詣でをして、《トリスタン》を全曲暗譜するほどの入れ込みようだった。
フォーレも《ニュルンベルクの名歌手》には深い感銘を受けた。《パルジファル》については「骨の髄まで感動した」ことを告白し、そのパリ初演で「力強く静謐な荘厳さ」を称えている。そればかりか《バイロイトの思い出》というメサジェとの合作になるピアノ4手用の遺作まで残している。
しかし、それにも拘らず、ヴァーグナーの「毒」を受け入れることに最も慎重であった作曲家は誰かといえば、おそらくフォーレであろう。
(高橋英郎「フォーレのドラマトゥルギー」)
~日本フォーレ協会編「フォーレ頌―不滅の香り」(音楽之友社)P91-92
ギリギリのところで、自らの神性を保持するとでも表現しようか、ドビュッシーと同じくフォーレの天才と自らへの確信がそこにはあったことだろう。
フォーレの音楽は、特に最晩年のそれは、心底厳しく、そしてまた優しい。まるですべてを包含する慈しみの光に満たされているようだ。
「老いよ、消え失せろ!」と妻に叫んだ手紙が残されている(1922年2月22日付)。
フォーレの苦悩は、凡人には計り知れない。
しかし、やはりベートーヴェンと同じく、致命傷があっての崇高な、余人の手の届かない美しくも内省的な音楽の創造が、神からの授かりものであると考えたとき、すべてはなるべくしてなった結果なんだといえまいか。特に、弦楽四重奏曲の第2楽章アンダンテに聞こえる、天にも届くような喜びと安息の響きに僕はいつも感動する。
私がいなくなったら、私の作品の言っていることに耳を傾けなさい。
(1924年11月2日、息子たちに言い残した言葉。フィリップ・フォーレ=フルミエによる伝記より)
死の2日前に息子たちに語ったフォーレの言葉が儚く、しかし永遠で、何とも美しい。