孤高のベートーヴェン。
閉ざされた世界にあって楽聖の精神はどこまで拡大するのか?
否、一体どこまで収斂するのか?
底知れぬ啓示的音楽に僕はいつも感動と同時にある種戸惑いを覚える。最晩年の冒険、あるいは実験。何にせよ僕たちがこれらを享受し、真に理解するには永遠の時が必要だ。
ハンガリー弦楽四重奏団の演奏は小ぶりだ。
大作が何と軽快に、淀みなく、まるで囁きかけるように奏されるのである。こういう方法もあるのかと、初めて聴いたとき僕は少々抵抗しつつもすんなり受け入れた。音楽に下手な精神性を持ち込むのではなく、あくまでベートーヴェンの創造した音楽を、一切の衒いなく、ただひたすらに音にする4人の夢想。音楽はかえって幻想的で美しい。
第3楽章モルト・アダージョ「リディア旋法による、病気から回復した者の神に対する聖なる感謝の歌」の切なさよ。それにもまして美しいのは、続く第4楽章アラ・マルシア,アッサイ・ヴィヴァーチェの弾ける明朗さ。ベートーヴェンは確かに生きていたのだとわかる。
ハンガリー弦楽四重奏団の演奏においては、より素晴らしいのはヘ長調の方だ。第3楽章レント・アッサイ,カンタンテ・エ・トランクィロなど、これぞ「祈り」だと言わんばかりの思念が連綿と綴られる。あっという間の6分43秒。死期が近づくにつれ余計なものを一切取り除いていったベートーヴェンの感覚は、最後に至って、”Muß es sein?”、 “Es muß sein.”といういまだ謎めく言葉を発した。セーケイの奏するヴァイオリンの旋律のあまりの美しさに僕は心打たれる。