壮絶な、鬼気迫るシューベルト。これが戦時中のコンサートの実況録音だからかどうなのか、指揮者の集中力は並大抵でなく、オーケストラも後にも先にもない、渾身のパフォーマンスを繰り広げるのだから堪らない。当日会場にいた聴衆は感激のあまり失神したのではないかと思わせるほどのパワーとエネルギーに満ちている。
ゲッペルスは1940年12月14日の日記に書き留めた。
フルトヴェングラーは、カラヤンが新聞であまりにも多く書き立てられていることに異を唱えた。私はこれを停止させた。フルトヴェングラーはその他の点では非常に礼儀正しく振る舞っている。結局、彼が現代のもっとも偉大な指揮者である。
再びこの件で12月22日付には—
フルトヴェングラーとカラヤンとの騒動。カラヤンは新聞などでますます誉められている。フルトヴェングラーが正しい。ともかく世界的な人物だ。私はストップをかけた。
~サム・H・白川著/藤岡啓介・加藤功泰・斎藤静代訳「フルトヴェングラー悪魔の楽匠・上」(アルファベータ)P402-403
当時の具体的な状況を知るにつけ、フルトヴェングラーの嫉妬などの感情を含めたナイーヴさに驚きを隠せない。ゲッペルスの決断はそれなりに正しかったのだろうと思う。
そして、実際確かに世間(ベルリン)はフルトヴェングラー派とカラヤン派に二分されたのだという。
当然のことながら、音楽の聴衆たちはその道の専門家によるこのような分かり易い対比をよろこんで鵜呑みにした。1941年から42年にかけての冬には、ベルリンを真っ二つに分ける戦線ができてしまった。一方はフルトヴェングラー派、もう一方はカラヤン派である。両派はたがいに争い、最後はどちらが勝つか、あちこちで賭けが行なわれた。なんとしても譲るまいと防戦をはるフルトヴェングラーにしてみれば、盟友になってくれるなら誰でもよかった。だから総統官房でクリスマスパーティーが催された折りには、ヒトラーの前で御前演奏するなどということさえ甘んじて行なっている。—なんといっても彼は優れたピアニストだったのだ。
~フレート・K・プリーベルク著/香川檀・市原和子訳「巨匠フルトヴェングラー―ナチ時代の音楽闘争」(音楽之友社)P444
世の中は戦火に見舞われ、そして、自身の内側では猛烈な感情の浮き沈みが襲っていたことを考えると、この時期のフルトヴェングラーの演奏が、烈火の如くの猛々しさと命を懸けたような一期一会的パフォーマンスであったことがよく理解できる。音楽は外の状況をとらえたものでなく、やっぱり演奏家の内面を如実に表すものなのだと思う。
文字通り「息詰まるドキュメント」!!
あの天国的長さの大ハ長調「ザ・グレイト」があっという間に過ぎ去るのだから見事としか言いようがない。
従来LPやCD(CD-R)で聴くことのできた「グレイト」は例えば第1楽章の展開部、316小節のffに始まる機関砲の速射を連想するような火を噴くテュッティ、硬質のティンパニの炸裂音、ややヒステリックな高弦の響きを特徴としていて、まさに戦時下の「グレイト」を想わせたが、今回熱心なフルトヴェングラー・ファンから提供していただいたメロディア青トーチ盤をよく聴いてみると、それとはやや違った趣きを感じる。ティンパニはもっと柔らかに響き、深々としたコントラバスに支えられたオーケストラはときに、今風に言えば「癒し系」の音色を発している。
(末廣輝男「フルトヴェングラーの『グレイト』」)
~OPK7010ライナーノーツ
オーパス蔵盤の音は明らかに充実したもので、胆にどっしりと響く。
しかし、1989年になってソ連から返還されたテープを基に復刻されたドイツ・グラモフォン盤の音も決して捨てたものではない。少なくとも僕の耳では末廣氏の指摘通り、火を噴く総奏とティンパニの炸裂などはこちらの方が上で、時と場合によっていずれか音盤を選択して聴いてみるのも乙だろう。
戦争末期の、ドイツ軍がハンガリーを占領した直後(この時期は既に連合国軍優勢でドイツは劣勢の憂き目にあった)の中で奏された「魔弾の射手」序曲序奏の厳かな響きと、主部に入っての勇猛な音楽に魅入ってしまう。外部の状況など音楽をするフルトヴェングラーには関係のないことだっただろうと思うが、生き物のように蠢く音楽の明朗さと生命力にフルトヴェングラーは未来への希望を夢みていたのだろうと思わずにいられない(特にコーダの炸裂にはのけ反ってしまうほど)。