東京芸術劇場 presents 読売日本交響楽団演奏会

時間が遡る。
藤倉大の”Entwine”は、コロナ禍にあって人々がいわゆるソーシャル・ディスタンスという概念を要求され、人と人とが直接に交わる機会を封じ込めた昨今の現象を表すものだ。世界がどんな状況に陥ろうと、人が人らしくあるためには直接に交わらねばならぬ(心と心が直接につながらねばならぬ)。オーケストラの奏者が互いの音を聴き合い、弱音から強音までを研ぎ澄まし、縦横にコントロールする様子に僕は人間の内なる慈しみを見た。

また、シベリウスは単一楽章の、簡潔ながら深遠な交響曲を書き、そこに大宇宙のすべて、森羅万象を投影した。そして、マーラーが目指したものは東西の融合だった。

音楽はまさしく時間と空間の芸術だ。それは文字通り「宇宙」ということになる。シベリウスが交響曲第7番を発表した後、第8番の創作に果敢に挑戦し、一旦は完成したと噂されるも納得いかず、楽譜を自ら破棄したのも、第7番によって「宇宙」のすべてを描き尽くせたという自負があったからだろう(そのことがまたプレッシャーになった可能性もある)。冒頭ティンパニの意味深い弱い打音から最後の音の残響が鳴り止むその瞬間まで、音楽は拡大し、また収斂し、僕たちに大自然だけでなく人間の感情や官能までをも体感させてくれるのは奇蹟だと言って良いのではないか。オーケストラは抜群のアンサンブルで音楽を奏で、各奏者は持ち得る最高のテクニックをもって旋律を鳴らし切ったと思う。指揮者の動きは時に烈しい。クライマックスを迎える瞬間の言葉にならないカタルシスよ。素晴らしい出来だった。

ちなみに、藤倉の新作はまるでシベリウスの音楽を意識するかのように同期していたように僕には感じられた。否、それこそ井上道義のプログラミングの妙と言った方が良いだろう。音楽は、静寂から大音響まで広い振幅による一体表現で、コロナ禍による分断を調整するかのように、いや、ほとんど嘆くように創られていたのが印象的だ。

東京芸術劇場 presents 読売日本交響楽団演奏会
2022年1月28日(金)19時開演
東京芸術劇場コンサートホール
・藤倉大:Entwine(日本初演)(ケルン放送交響楽団他との国際共同委嘱作品)
・シベリウス:交響曲第7番ハ長調作品105
休憩
・マーラー:交響曲「大地の歌」
宮里直樹(テノール)
池田香織(アルト)
井上道義指揮読売日本交響楽団

プログラムの進行と比例してオーケストラの規模は拡大する。
シベリウスの音楽が現実的ならば、マーラーの「大地の歌」はまるで夢の中にいるかのようだった。僕たちが現実だと思っているこの世界は仮の世界であり、客席からステージを傍観する僕にとって、それはまさに夢の中と同義だった。マーラーは東洋の詩に西洋の方法で付曲した。ただし、その方法は実に斬新で、それこそ東洋的な、エキゾチックな音を彼は創り出した。しかも、男声と女声で楽章を分け合う交響曲は相対世界の顕現であり、オーケストラの轟音にどうしても埋もれてしまう人の声の限界を、人力の限界を示すようでとても興味深かった。管弦楽の響きは大宇宙の鳴動だ。
僕たちはおそらくもっと謙虚にならねばならぬ。今後も、いつ何時災害、禍が頻繁に起こるであろう世界にあって、我欲を捨て、自然と真に調和することを学ばねばならぬ。

何と言っても第6楽章「告別」が美しかった。
池田香織の歌が厭世的でなく、また単色でなく、色彩豊かだったことの素晴らしさ。あるいは、中間の管弦楽のみの場面における音楽の高揚感。そして、再び池田が歌うその瞬間の慈しみの声!!

わが友よ この世では
しあわせには 恵まれなかったようだ

どこへと問うのか 山へと分け入るのだ
独りの心に 憩いを与えるため

故郷へ 身を置く場所へ
もはや 見知らぬ地を 流離うことはない
心穏やかに その時を待つつもり

(広瀬大介訳)

名訳だ。
晩年のマーラーは悟りを得んとワーグナーの「再生論」を追随したのだという。
彼は結局体得はできなかったのだろうが、しかし、テキストから読み取れる無心の境地は、井上道義の棒にによって十分明確に表現されたように思われる。

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