「第3交響曲=ヘ長調(作品90)」は、特色の少いシンフォニーではあるが、わたしはこの健康な情熱を愛する。レコードはワルターがウィーン・フィルハーモニック管絃団を指揮したのがある(コロムビア)。それは名演奏には相違なく、優雅で端麗でさえあるが、私は少し古いレコードではあるが、メンゲルベルクがコンツェルトゲボウ管絃団を指揮したレコード(コロムビア)の愛情と覇気を忘れ難いものと思って居る。
~あらえびす「クラシック名盤楽聖物語」(河出書房新社)P225
あらえびすのこの簡潔な評を読んで、メンゲルベルクのレコードを聴きたくならない人があろうか。ブルーノ・ワルターの戦前のウィーンでの録音はもちろん名演奏だと思う。しかし、一層恣意的な、浪漫の限りを尽くした、第3楽章ポコ・アレグレットなど蕩けてしまいそうなほどの外面的な官能性を押し出すメンゲルベルクの解釈に僕は心から動かされてしまう。演奏とはかくあるべしという信念までもが刻印された堂々たる威風に言葉がない。終楽章アレグロ—ウン・ポコ・ソステヌートも恐るべき覇気に溢れ、前のめりの進行に焼け焦げそうになるほどだ。90年も前の録音にも関わらず、オーパス蔵による復刻は鮮明かつ重低音にも長け、実に美しい。
リストの「前奏曲」もメンゲルベルク節満載で、アクセルとブレーキの主観的なコントロールに時に吃驚するが、年代の割には鮮明な音質で、彼の独自の猛烈な解釈に、わかっていても感動する。そして、特筆すべきはやっぱり咽び泣く、官能の極致、マーラーのアダージェットだろう。
思ふに私のやうな貴族的な性情をもつて生れた人間にとつて何よりも寂しいことは、あのなつかしい「愛」の欠陥である。神は貴族とエゴイストとを罰するために彼等の心から愛憐の芽生をぬき去つた。(その芽生こそ凡ての幸福の苗であるのに。)あの偉大なるトルストイを始めとして、世の多くの貴族と生れながらのエゴイストとが、悩み苦しみて求めるものは、実にこの「生えざる」苗を求めんとして嘆き訴ふる悲しみの声に外ならない。
(萩原朔太郎「愛の詩集の終りに」)
~室生犀星「抒情小曲集・愛の詩集」(講談社文芸文庫)P213
愛の欠落こそが芸術を生む種だというのか、それならばメンゲルベルクの創造する官能の種は、まさにこの愛の欠落から生じたものだといえるのではないか、ブラームスやマーラーを聴き、朔太郎の言葉から僕はそんなことを考えた。