
一昨年亡くなったミレッラ・フレーニはヴェルディやプッチーニを得意とした。
抜粋ながら彼女の歌を聴いて、何と伸びのある溌溂とした、同時に芯のある、深い声質なのだろうと感心した。もちろんそのことによって物語に箔がつく。そして、それを享受する者を、まるで物語の登場人物であるかのように錯覚させる力を持つ。これは驚異的なことだ。
カラヤンがベルリン・フィルを振って録音した歌劇「ドン・カルロ」では、フレーニはフランス王女エリザベッタ・ディ・ヴァロアを演じている。第1幕の、カレーラス扮するドン・カルロとの二重唱「お願いがあって参りました」のことさらの感情移入に歌が見事に映える。そして、長大な第4幕アリア「世の虚しさを知る神」の、様々な情感を時に烈しく、時に静謐に歌い上げる力量に舌を巻くのだ。
長大な歌の中で、ロドリーゴに代ってカルロの行く末を見守ると誓ったこと、故郷フランスへの望郷の念、この世では報われないカルロへの愛の虚しさなど複雑な胸中を歌い込んでいく。幅広い表現力の要求される至難な曲で、ともすればその長大さが冗長さに直結してしまいかねない。
(酒井章)
~スタンダード・オペラ鑑賞ブック②「イタリア・オペラ(下)」(音楽之友社)P178
フレーニの歌唱もさることながら、特筆すべきはカラヤンの棒。何といううねり、何というパッション!
そして、イタリアのとある修道院を舞台にしたプッチーニ作「修道女アンジェリカ」においても、有名なアリア「母もなしに」が何と切なく、悲哀の念を込めて表現されることか。ここは当然プッチーニの音楽の素晴らしさがものを言うのだが。
さらに、盤石のスーパー(?)歌劇「アイーダ」での、特にフレーニのアイーダの激情とアムネリスを演じるバルツァの冷静な歌の対比が実に興味深い。バルツァの起用については非を唱える人も多々あるが、二元世界の対照的な歌唱という捉え方ができるならそれはそれでありだろう。抜粋ながら、個人的にはとても素晴らしい録音だと思う。