尹伊桑の不屈の想いもショスタコーヴィチの二枚舌的本心も、結局のところモーツァルトの無垢な音楽につながっているんだとふと思った。
ショスタコーヴィチも尹伊桑もモーツァルトのことは当然知っていただろうし、彼の音楽を愛していたろう。しかし、モーツァルトはショスタコーヴィチも知らねば尹伊桑も知らない。何という不条理(笑)。モーツァルトの音楽は、モーツァルト以降のあらゆる音楽のイディオムを先取りする。音楽のすべてがここにあるというある意味完成形。
モーツァルトの音楽がモーツァルトらしさを獲得したのはいつか?
ひょっとするとザルツブルクからウィーンへ居を移す直前のあの頃かもしれぬ。そして、彼の歌劇の中でもいわゆる後期の4大歌劇の前の重要作が「イドメネオ」なのである。
モーツァルト:歌劇「クレタの王イドメネオ」K.367
ヴィエスワフ・オフマン(イドメネオ、テノール)
ペーター・シュライヤー(イダマンテ、テノール)
エディット・マティス(イリア、ソプラノ)
ユリア・ヴァラディ(エレクトラ、ソプラノ)
ヘルマン・ヴィンクラー(アルバーチェ、テノール)
エバーハルト・ビューヒナー(大祭司、テノール)
ジークフリート・フォーゲル(声、バス)
カール・ベーム指揮シュターツカペレ・ドレスデン&ライプツィヒ放送合唱団(1977.9.9-16,11.12-23録音)
何て「歌」に満ちた作品なのだろう!
犠牲なくして愛はないという悲劇だが、そもそもそれは必然なんだ。愛というものが自らを省みない強さをもつ。
思い出した。つい先日のニュース。横浜で40歳の女性が70代の男性が線路上でうずくまる姿を見て、思わず「助けなきゃ」と救出した上で自ら命を落としたという話を。そう、まさに悲劇だ。
人間存在の根本。何て深いのか・・・。
第2幕第5場、第15番合唱の安寧の響き。エレクトラの幸せに満ちた歌。そして、静けさに溢れた海の表情。
ベームのモーツァルトは本質を見透かす。
例えば、第3幕第6場、第24番合唱の慟哭。これは晩年のモーツァルトに通ずる心の叫びだ。こういう音楽を書かせるとなればモーツァルトの右に出るものはいない。そして、こういう音楽を再生するとなればベームの右に出るものはいない。
悲劇というのは悲しみの物語ではない。途轍もない愛に溢れたもの・・・。
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ベームのモーツァルトでは、「イドメネオ」、「後宮からの誘拐」、「皇帝ティトゥスの慈悲」の国内盤がなかなか出てきません。出てきてほしいものです。
「イドメネオ」は、モーツァルトのオペラでは人生のターニング・ポイントに当たる名作として重要です。このオペラの初演の後、モーツァルトはザルツブルク大司教ヒエロニュムス・フォン・コロレド侯爵にヴィーンに呼びつけられ、大喧嘩をしたあげく、ザルツブルクを去り、ヴィーンに定住し、自由な音楽家として生きることになりました。
>畑山千恵子様
おっしゃるとおりターニング・ポイントに当たる名作ですよね。
もっともっと聴かれるべき、上演されるべき、そして録音されるべき傑作だと思います。
[…] ベームの「イドメネオ」を聴いて思ふ [アレグロ・コン・ブリオ~第5章] – 10/05 23:49 […]
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[…] ベームの「イドメネオ」を聴いて思ふ […]
[…] 切の無駄のない運び。 ちなみに、K.349とK.351は、珍しくマンドリンが伴奏を務めるが、これがまた安寧の雰囲気をもたらすのだから、それこそ創造の妙(歌劇「イドメネオ」K.367の頃)。 […]